私は操体とご縁があってボチボチ10年弱位になりますが、毎年思うのは確実に疾病の本質は、より巧妙に潜在化し、目に見える可視的現象症状と、原因である不可視な現象に対して、我々臨床家が確実にふるいにかけられているなと強く感じます。従来通りの当たり前のみたてでは間に合わない、その様なクライアントが年々増加しているのです。
何処を見ても異常が無い、MRIやCTスキャンなど現代医学の推移を集めた機器で調べても原因が判別出来ない痛みや、症状が横行していています。その一方で現代医学はひたすら、未知なる病の細胞レベルでの原因究明に躍起になり、よりミクロな世界で研究を深めて行こうとしています。その間患者は蚊帳の外でひたすら痛みと孤独に闘う日々が続いていくのです。
橋本敬三先生は昭和十二年に支那事変で第一回の召集を受け、「漢方と漢薬」に投稿されて以来、ことある毎に同じ医者としての立場から、医学界の盲点に対しての警鐘を鳴らして来られました。しかし、残念ことに一部の方を除いては、先生の意見など聞く耳を持たず、皮肉なことに医学界に絶望し、断筆宣言した後に、NHKで取り上げられ『操体法』は世に出て行くこととなるのです。
どんなに科学技術が進み、人類が進歩しても、所詮、ヒトはヒト地球上に住む動物の一種に過ぎないのです。エジプト時代を生きていた頃の人々と我々では何が違うのでしょうか?体型的な部分を除けばほぼ変わらないと思われます。当然、健康長寿や豊かさ、心の安寧など、現代人と全く変わらない概念で日々、過ごしていたのではと想像出来ます。
ただ、当時の人達と大きく変わったものは、『感覚』の鈍化だと思われます。人間の根源でもある、五感(触、嗅、聴、視、味)やスピリチュアルな部分も含めた六感などは、明らかに現代人は退化してしまっているのです。これは簡単なことで、動物は感覚で生きていますので、安全や安心を担保されると、余分なモノは一つずつ受容器の中から排除していくのです。セコムに安全を任せたら大丈夫、アルソックなら吉田選手がタックルしてくれるなど、危機管理能力という動物にとって一番大切な感覚を捨ててしまっているのです。
世界一安全な国とは、『世界一感覚の鈍化した人々』の称号であり、素直に喜べることではないのです。
では、無くなってしまった、或いは無くなりつつある感覚は取り戻すことが出来るのでしょうか?答えはYES!当然のことながら、気付き改善していくことで、感覚は呼び覚ますことが可能となってきます。
そのためには大師匠である三浦先生もよく言われるのですが、可視なるモノにだけ目を奪われずに、『不可視』なるものに目を向ける(感覚を傾ける)ことが必須であると思います。不可視なものとはパッと見、目には見えず、波動だったり、皮膚感覚であったりと、あくまでも捉えるヒトの感性に委ねられます。見えないからダメじゃん!では無く、見えなくなっているのだから、感覚を研ぎ澄まし、身体の奥底に眠っている何かを揺り起こしてやるのです、頭で考えてもネットで調べてもダメです。ひたすら自分の内面と向き合うことが大切なのです。三浦先生が「自分時間をもっと作りなさい」「生活時間にだけ目を奪われずに自分時間を作ることだ」と、ことある毎に言われていたのですが、その時は理屈で理解し、中々実行に移すことが出来ずにいました。
そんな時に今年、たまたま知人の方からご縁があったのが、『氣学』でした。一般的には『九星氣学』と呼ばれており、生れた年月日の九星と干支、五行を組合わせた日本生まれの占術です。私も最初はど〜せ占いでしょ?って感じで、星座占いの延長みたいな感じで想像していました。ところが、その根底にある哲学が妙に心擽られるものがありました。
それは、私たちはこの大自然の気に触れて生まれ、この世に生をうけ産声を上げ、呼吸をし始めた瞬間から、性格や運命に大きな影響を与えられ、人それぞれの一生を歩むと言われます。気(波動)は誰もが持っているエネルギーであり、心と精神をつなぐ線という考えもあります。気は「大気(エネルギー)」として宇宙に存在し、私たちに命の息吹を与えてくれます。これら気・大気のあり方や方向性を占う運命学が気学という考え方なのです。
以前、三浦先生は呼吸は宇宙と繋がる様に通すことが重要だと仰ったことがありました。
完璧な人間なんて世の中には存在せず、地球上に生まれ落ちた時に与えられる最初の宇宙のエネルギーは、その時の「年、月」のタイミングで決まってしまうのです。
不可視なものを感じるとはまさに宇宙と繋がり、空間を感じることが重要であり、まさに氣学の根底定理にこれらの思想が存在するのです。
そして、氣学の中には『吉方取り』といった自分自身に必要なエネルギーを得るために、日々行うこともあります。この時間が今の私にとっては“自分時間”にシッカリとなっているのです。朝の仕事前時間を使って自分と向き合う、そして待ちでは無く積極的に自分に必要なものを自分の足で出向いて取りに行く。習慣が変われば人生が変わるという言葉もありますが、まさに私自身日々の学びの中から、10年間操体を学んできたことを再度、検証し、学び直しているところと言えます。
今回、大師匠である三浦寛先生より、『師範代』という称号を戴きました。称号授与の際に三浦先生が「今回、認定書では無く、称号であることをもう一度、考えて欲しい」と仰いました。非常に重い言葉でもあり、寧ろ称号を戴いてからの方が、ここからが本当の意味での自分自身の操体スタートなのだという、改めて生まれ変わった気持ちになれました。
人に物事を伝えていくということは、生半可な思いで伝えてはいけない、橋本敬三師がどんな苦難に遭っても育み、三浦先生が紡いできた操体の思いのバトンを託されたことを、誇りに思い、これからも静かな汗をかきなさい。という意味だと、戴いた『敬勇』の称号に責任を感じました。これからも宜しくお願い致します、一週間ありがとうございました。
明日からは大師匠三浦先生の順番です、お楽しみに。