ちょっと長くなりますが「生体の歪みを正す」から引用します。
「がんばるな」「がんばらなくてもいい」という言葉を理解するには、その単語だけ追いかけてもダメです。
悪人正機説は「歎異抄」や、親鸞上人の思想を知らなければわからないように、です。
二十三歳の或る日、自分はこの時すでに医学生時代の後半に達していたのであったが、盛岡の牧師・平野栄太郎先生によって、創世以前の久遠の生命なる観念を提示され、開眼されたのである(新約聖書エベソ書の第一章)。自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものであるとの自覚を得た。
そして先生から「救い」と「報い」の区別を、はっきりと教えられた。この自覚はいかに自分を解放してくれたことか。それまで神経質で潔癖であった自分は俄然呑気になり、ルーズにさえなったが、全く性格は一変して気楽になり、それ以後今日まで、取越し苦労、持越し苦労で長く悩んだことはない。人間苦の最たるものは妄想苦であって、現実にぶつかって知る苦痛というものは、それに比べれば大したものではない。この妄想苦から解放されたのである。
この救いの信念に安住できた「救い」と「報い」の区別というのは、わかりやすい言葉で言い表わすなら、「救い」は絶対、「報い」は相対だ、ということである。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。「報い」とは現世における歩み方の努力に対する相対的評価である。「救い」は自己単独における観の転換により悟ったものであり、「報い」は周囲に対する感恩報謝の行動によって加減変化する価値観である。
この「救い」と「報い」との区別を理解できなかったことが霊肉の板挟みにあって苦悩することになったのであって、霊は生まれぬ先から救いが完成されているのであり、肉は自然法則に順応して統制訓練することによって浄化され調和されるものであることが判った。
機悔して悔いあらためても悔いあらためでもすぐ罪を犯す。
この生身の体をもち、五官の食欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、どうしてもこれを制し切れないで、ついつい悪いとは知りながら負けてしまう
こうなってくると、せっかくのキリストの贖罪も利益も屁にもならない。
死ぬ時うまく信仰状態にあれば天国行も可能かもしれないが、ちょうど罪を犯しつつクタバッてしまったらそれこそ最後だ、天国行はオジャンである。
何んとか罪を犯さぬような救いをうけることは出来ないものか。
こうなりゃ誠に申し訳ない限りだが、神を呪って死んでも救われる道はないものか、などとヤケッパチな気分にもなったものでした。
私が盛岡の牧師、平野栄太郎先生にめぐりあったのは、もう医学生時代も後半に近い二十三才の時でした。
全く無名の人でしたが、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロポロになるまで読みつぶしたという平野牧師から、私はエペソ書の第一章を示されて、「ここにこう書いてあるじゃないか」と次の型句を教えられたのです。
駒居先生の資料から拝借
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
エペソ人への手紙1:3~5
我々は生まれる前から神の子であることが決まっているんですよ!(畠山超意訳)
キリスト教では「救いはない」と、説いている。
橋本敬三先生の考え
救いがわかってから聖書を見ると、イエスはもちろん自分は神の子であると自覚しておったが、他の人もまた、みな神の子だと断言している。
幼い子ども達を見ては、神の国におるものはみなこのような人間だとも言っている。
しかし、罪悪感にとらわれていくらお前達は神の子なのだと教えても解脱しきれない人類の宿業のあわれさをみては、やはり身代りに自分を犠牲にしてこれを信じさせるより仕方がないと覚悟したもののようである。私はこの時、「ああ、そうか、そうだったのか」と素直にうなずけた。なあんだ、今までがんばれ、がんばれと言われてがんばってきたけれども、別にがんばることもなかったんだな、俺はもう初めから救われていたんじゃないか。
と、ここで出てくる。そしてその後に「俺はもう初めからすくわれていたんじゃないか」という文言が続くのです。