東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「救い」はもともと。

おはようございます。
昨日のブログの中で、神とか陰陽未分の一(太極)の意志という、人智を超えたものが自在することを認識しなければ、宇宙の根源である太極の説明は不十分なものとなってしまうと書かせていただきました。
 神と書いているが、私は神という表現をすると読んだ人が、どういう感じ方をするか不安になる時があります。勿論、絶対的自在、絶対的救いを表現する際、こう表現するしかないと思う。しかし、今の世の中では相対的な基準での神への信仰が一般的となっていると感じるからなのです。
 キリスト教なども一般には、本来の教えよりも、解釈する人間の心理(理想が高いゆえに過剰に罪悪感を持っている)や時の権力との兼ね合いもあり、次第に相対的基準をもとに、「報い」の面ばかりを強調したものとなって、今の世に伝わっている感もある。
 これは、若き日の橋本敬三先生の時代でも、一般的にはそうだったようで、「生体の歪みを正す」の375ページには、このようなことが書かれている。
 自分の見たところでは、一般キリスト教会において説かれていることは、人類は神の前に罪悪を犯しているものであるから、聖なる神は、いかに愛であっても、そのまま人類を赦して、これと交際したり、永遠の生命を与えてやることはできない、仕方がないから罪のない自分のひとり息子なるキリストを人間の形にして、この世に生まれさせ、これを十字架にかけて人類の身代わりとして罰を加え、罪の処分をした。この身代わりになったイエス・キリストを自分の救主と信じて、神の前に立つならば、神はキリストの犠牲に免じて、信じたものだけを神の子として受け入れてくれるのだ。信じないものは天国入りは許されない、気の毒ながら地獄行きにする。人類のうち純粋の神の子は唯一人イエス・キリストだけで、これを信じたものが準神の子として天国入りのパスポートを与えられる、というのであるらしい。 
このあたりを読むと、一般的には随分と前から「報い」の強調された教えとなっていたと感じる。
別に一般的にひろまっているキリスト教を悪く言うつもりは更々ないし、この個人の利益(欲)ばかりを優先させる現代社会にあっては、現世での周囲に対する感恩報謝の行動、道徳という面に於いて素晴らしいものがあると思う。
しかし、このような「信じたものは救われる」という言葉に代表される相対的な価値観だけでは、確固とした自分自身のイノチというものには結びついてこないと感じる。常に罪を犯す不安からは逃れられないだろうし、自分は死んだ後、現世での報いをどう受けるのだろうかという不安からも逃れられなくなると思う。
 橋本先生も青年時代、5年間も悩みに悩んだという。そして23歳のある日に、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロボロになるまで読みつぶしたという無名の牧師・平野栄太郎先生から、エペソ書にある「世の創の前より我らをキリストのうちに選び・・・愛をもて己が子となさん事を定め給えり・・・」という聖句を教えられて、豁然として目が覚めたという。そして、平野先生から「救い」と「報い」の区別を、はっきり教えられたという。
本来はキリスト教も、人間あるいはすべてのイノチは、生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものである、という「救い」の教えが元になっているのだと思う。
「救い」と「報い」。橋本先生は、「救い」は絶対、「報い」は相対だ、ということである。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。
と著書の中で書いている。
このことからも、太極を神に例える場合、絶対的な救いの神なのだ。信じたものは救うというような条件付の神ではないのだ。条件付の神とは人間がつくってしまった偶像なのではないだろうか。
人間のつくった条件付の神では、先程書いたように罪を犯す不安からは逃れられなくなるだろうし、自分は死んだ後、現世での報いをどう受けるのだろうかという不安からも逃れられなくなると思う。条件付の神のもとでは、安心は得られないのではないだろうか。何よりも、神の前で罪を犯しているという前提のもとでは、自分自身のイノチというものの尊厳にはつながってこない。それではイノチというものを軽んじてしまうのではないだろうか。生きる自信にもつながらないと思う。
罪を認識し、自分以外のイノチを尊重することは大切なことだ。そして感恩報謝の行動も道徳を守るという事も、人間として生きる上で重要ことだ。しかし、その前にこの世に存在している自分が、どのようなものであるかを知ることは、もっと重要なことなのだ。自分自身の確固とした存在の根拠をもつというのは大変重要な事だ。自分自身のイノチは、絶対的な救いである太極から生じ、陰陽分極の相対的な現世を生き、そして絶対的救いの太極に帰っていくのだと思う。
「救い」→「報い」→「救い」であり、いきなり「報い」から「死んだらどうなるのだろう?」ではないのだ。




2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催.