今日は橋本先生の哲学を知る上で重要なキーワードである「原始感覚」について書いていきたい。
橋本先生は著書において原始感覚を「カン」と書かれている。人間はその「カン」に従って自分のカラダに合った行動をとったり食物をとったりする「知恵」を持っていたと説かれている。しかし現代人はこういった「知恵」には意識を向けずにマスコミや雑誌が取り上げる健康法やカラダに良いとされる「知識」に必死にすがりついてしまうのである。残念ながら「知識」には目が向くが「知恵」には目が向けられないのが現状なのだ。その「知識」が健康の維持、増進に繋がっているのならば問題はないのだが「あっちが痛い、こっちが痛い」といった結果を残念ながら生み出してしまっている。つまり「知識」が生かされていないのである。本来ならば食するにしても動くにしても全ての責任は己にあるので「知恵」を生かし「カラダに聞き分ける」事さえすればこういった事もなくなってくる。人間が作り出してきた「知識」よりも元々在る「知恵」を活かしていく事の方がカラダも喜ぶし、大切にしていかなければならないものなのだ。もちろん「知識」なくして人は生きてはいけないだろう。ただ、その「知識」も持っているだけなら何の役にも立たない。「知識」も使って生かされ、初めて「知恵」となるのである。
人間は本来自然法則に乗っ取った自分の食性や理に適ったカラダの使い方のルールを生まれながらに備え持っている。つまりそれは原始感覚であり、そのベクトルが「気持ちが良い」という快適感覚に向かえば心やカラダが病むことはまずない。それが「不快」というベクトルに向いてしまうから病んでしまうのである。三浦先生は講義で「原始感覚には楽か辛いかという識別はない。快か不快かである」と言われていた。つまり生まれつき備え持っている「知恵」を生かす事が出来れば、自ずと己の命の方向性は「快」に向かっていくのである。ただ人はその「知恵」の使い方が分からないから「知識」に頼り「不快」という命の要求していない感覚を無意識に受け入れてしまうのである。私自身も人間が本来、備え持っている「知恵」を大切にし自分のカラダと向き合っていかなければならないと思っている。それにはまず「知識」をインプットするだけでなくこういった機会に積極的にアウトプットする「循環」をしていこうと思う。
今日はこの位にしておきます。 続きはまたあした。