東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

レオ

今年、個人的にも家族的にも一番大きかった出来事は、長男坊主の『レオ』が亡くなったことです。
私の個人ブログを見ている方は私が猫好き、猫様命なのはご存じなので、何ですが、
ウチはヒト科の子供がいない代わりに、ネコ科の子供が三人居ました。
長男坊主がタイトルにもなっている『レオ』♂、次男坊主が『まぁ』♂、三男坊主が『小太郎』♂の三兄弟です。
と言っても、現在存命中は三男坊主の『小太郎』のみです。

次男のまぁはウチに来たときから死にかけ状態でやって来て、鼻水すごいわ、大丈夫かこの子?って状態で、
即入院、一週間の治療で治療費10万円オーバーって感じの子でした。医者のお陰で、何とか一命を取り留め、
元気で家に帰り、本当の兄弟では無いのにレオと妙にウマ(ネコ)が合い?、
いつも寄り添って仲睦まじい感じが微笑ましかったのを覚えています。

ようやく元気にあちこち出歩くようになったので、ソロソロ去勢しないと、いかんなぁ〜と思っていた矢先に、
ウチの前で車にダイブしてしまいました。嫁はパニック、泣きながら私の部屋にやって来て何言っているか分からないけど、
まぁが車にはねられたことだけは何となく理解出来たので、未だ暖かさの残るまぁを抱えて、
お風呂場でからだを洗ってやって、タオルにくるんで、翌日、ウチの田んぼの横に埋めてやりました。
この時は余りにもあっけなく、悲しいとかと言う前に、呆然としてしまいました。
お袋さんがお風呂に入っているのにも関わらず、お風呂場にズカズカと入って、まぁのからだを洗っていたので、
私自身も脳内パニック状態だったのだろうと、今考えたら思います。

ウチのスタンスとして、お金を出してお猫様を家族にするなどという選択肢は今迄、一回も無く、
全てがご縁において、断る理由が見つからないときにやって来ているのです。まぁ、
その全部が嫁の行動から発生しているので、何とも言えませんが。

と言うことで、今居るのは三男坊主の『小太郎』だけなので、一番ビビリの図体だけはでかい子が、
今では私の研究所の番猫となっております。ウチに来られるとお出迎えをして足にスリスリしてくれるので、
良い助手になっております。

今回、レオが亡くなったことは家族にとって悲しい出来事ではあったのですが、私達的には心の整理と、
お見送りする心の準備が出来たこともあり、心穏やかに送ってやることが出来ました。
何よりも嫁が冷静でいられたことが、その証だったような気がします。
ウチのは前世猫か!って突っ込みたくなる位にお猫様LOVEで、やめとけって言うのに野良猫に手を出して
全力で引っかかれて大出血したり、レオがよその猫と喧嘩して興奮状態の時にやめとけって言っているのに手を出して、
これ又、大出血サービスという目に何度もあっています。お陰で傷害保険を何度もお猫様で使う羽目になり、
ウチでは保険金詐欺師と呼ばれています。

今、世間では家族の『看取り』が時々話題に上ることがあります。私のクライアントに介護士の方や、
看護師の方々がいるので、よく聞くのが、施設に入居してから亡くなるまで、
一度も家族が見舞いに来ないケースが多いそうです。特に介護施設はそれが顕著で、
年末年始位はお家で一緒に過ごされたらどうですか?って聞いても、忙しくての一点張りで、
置き去りのままというケースが驚くほど多いとのこと。

ある葬儀場にお勤めの方から聞いた話しでは、
葬儀が終わって、お骨を抱えた親族の方が、裏山に向かって何かをしているのが気になり覗いてみると、
お骨を山の斜面に向かってばらまいていたそうです。半ば呆気にとられて見ていると、
悪びれる素振りも無く、ウチはマンションだから仏壇とか置くスペースが無いのよね〜って言われたそうです。
ただ、その方曰く、それに近いケースは珍しくなく、誰がお骨を持って帰るかで、
式場で怒声をあげながら親族同士が言い争う光景だとか見ていると悲しくなり、少なくとも
自分の身内はそうであって欲しくないと願うばかりだと仰ってました。

話しが逸れましたが、看取りから死までの過程はいわば、お互いの心の整理の場所であり、
口に出せずとも、死にゆくものと、生有るものとの心の架け橋の場であり、
無言の内での意思の疎通をはかっているのです。頼んだよ、分かったよ、
安心して行ってらっしゃい。そんなイノチの営みと交流がそこにはあるはずなのです。

私達は確かに時間が無い中で日々生活を送っています。気が付けばもう、師走になっているといった具合に。
でも、イノチの根源とイノチの行き場所を疎かにしてはいけないと思うのです。
今自分があるのは誰のお陰なのか?目に見えない絆という糸で繋がっているからこそ、
ご先祖様やそこからの繋がりを意識することが出来るのではないのでしょうか。

とかく一人で生きていると勘違いしている人達が多い昨今、人は誰一人として、
一人では生きていけないのです。服だって、ご飯だって、電気だって身の回りに有るもの全てが
自分以外の人達のお陰で使えるわけです。

レオが亡くなる一週間は本当に看取りでした。あんなに元気に走り回っていたのが、
ヨタヨタと歩くのもきつそうな感じで、手をかけても軽すぎて余計に寂しくなります。
食事も余り摂らなくなり、水をたまに飲む程度、亡くなる三日前位からは殆ど何も口にしなくなりました。
亡くなる前日には外に出て、庭にうずくまり、じ〜っと外を眺めていました。
まるで色々なものに別れを告げるようにも見えて、私も一緒に同じ目線で見ていました。
何となくですが、お迎えが近づいているのかなぁなどと、朧気ながら感じました。

何となく不安に感じながらも、夜を迎え、夜中に起きてどうしているかと覗いてみると、
私の施術室でうずくまっています。軽く撫でながら少し安心して二階に上がりました。
翌朝、下に降りると施術室にレオが居ないので、おお歩ける位の元気が未だあったのかと、
居間に向かうと、母が「レオちゃん亡くなったよ」とポツリと言いました。
タオルにくるまれているレオは何だか未だ暖かさを感じられる位でしたが、
亡くなっていました。嫁にも知らせ、どういう反応かなと思えば、

「あ、ホント。。でもよくやったよね、レオは・・もういいよね」と余りにもあっさりとした反応に、
こちらがギョッとする位でした。家族のみんなが、徐々に弱っていくレオを一週間見続けていました。
何故か、今回は誰も病院へ連れて行こう!というものがいませんでした。
これだけ弱った身体で、嫌いな病院へ連れて行くことがどれだけのストレスになるのか・・
元々、慢性の腎炎を患っていて、病院通いが多く、その度に大騒ぎだったことを考えると、
体力的にも気力的にも耐えられないだろうと、家族みんなの総意でした。
昔から猫は死ぬときは人の目を避けて死ぬなどと言われますが、
それは家猫では無い野生に暮らす猫のことであり、家猫にとってはやはり、
死の間際まで家族と居たいのだと思います。逆に、病院の知らない先生の所で亡くなるより、
家族に看取られ幸せだったのではと感じます。

生きとし生けるものに誰しも、必ず訪れる死ではありますが、橋本敬三先生
「みんながいくところだから、気持ちいいとこに決まってんだ」と言われたそうですが、
人が死を迎えるときに、あぁやっと死ねる・・と思えるのか、未だ死にたくない!と執着するかの違いは大きいと思います。
好きな人達に囲まれ、前日まで話しも出来て、朝見たら亡くなっている、
顔は仏様のようだったと言う話をよく聞きます。これが病院ではこういうわけにはいきません。
からだのあちこちから管を出され、意思の有無にかかわらず生かされる生き方。
看取るとは言葉で書くほど簡単ではないですが、近しいものの死はヒトだろうが、
ネコだろうが、関係ありません。そういう意味ではレオの死は家族にとって
色々なことを考える切っ掛けになった出来事でした。

合掌

亡くなる前日、庭に出て廻りを見つめるレオ