東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

病気と自己責任(2)

昨日の続き

 本当に病気というのはありがたいとしか、他に言いようがない。病気になったことで我々は死なずにすむからである。もし、病気が起きなかったら、たちまちにして回復し得ない重症に陥ってしまうだろう。病気というものは、からだの危険性をいちはやく知らせてくれる警報器でもある。いと精巧な警報器がついているからこそ、「病気」になれるのであり、痛いとか、痒いとかも言えるのである。
 そこを間違えて、病気を悪者扱いにし、闘病モードに入って病気と闘うというようなことは、決して考えてはならないことだ。病気になるのには必ず原因がある。しかるにその原因を取り除けば、病気は必ず消えてしまうが、これはきわめて簡単な論理であるのに、ほとんどの人が理解していない。病気は決して嫌ってはならないものであり、その原因を見つけ出して取り除くべきことなのである。

 病気になって痛みがあると、それはありがたい警報であり、また同時に原因を取り除こうと血液を呼び集めている尊い働きである。その痛みは、病気そのものではないのに、痛み止めの薬を飲んで痛みが止まると、治ったと思い込んでしまうのだ。これは治ったのではない、痛いと感じる神経が殺されたのである。未だかって死んだ人が痛いと言ったことがないのと同じで、鎮痛剤を使えば、痛みがなくなるのは当たり前のことだ。
 
 たとえば盲腸炎というのは、破裂していない限り、簡単に治るものである。それを切り取ってもらい、これで盲腸炎が治ったと言って喜ぶ人が多いが、とんでもないことである。盲腸というのは、腸機能の警報器だ、この警報器がなくなると、腹に故障が起きても感じることができないようになる。盲腸が存在していることが原因で、盲腸炎になったのなら、当然、その原因たる盲腸は、切り取るべきものである。しかし、健常者が、盲腸はいぜん生まれたままについていても、盲腸炎で困ることはないのであるから、盲腸炎とは、盲腸があるからではないというのは明瞭な事実である。
 盲腸炎の本当の原因は、肉類や砂糖の過剰摂取や腰椎二番の副脱臼、それに左膝の故障、あるいは心の不平などであるから、それらを治せば、姿がなくなれば影も消えるように、盲腸炎は消えてしまうものである。およそいかなる手術にしても、切り取ったところは、神経も同時に切られているから、警報線を外されたようなものだ。するとそれだけ、からだが無防備になり、それだけ寿命を縮めることにもなる。

 これは薬剤についても、ほとんど同じようなことが言える。一般薬品というものは、肉体にとっては、必ず異物であって、健康体の人に与えて実験したら、その害毒作用はすぐに分かる。健康体に害を及ぼすぐらいであるから、病弱体には、もっと強く害を及ぼすことになるのは、論理的に言っても間違いない。
 神経痛を患った人が長いこと、副腎皮質ホルモンを射っていて、あるとき床に尻餅をついて、立てなくなりレントゲン写真で見ると、骨盤が三つに割れていたそうだ。またコーチゾン薬と病気の板ばさみにあって苦しんでいる人も意外に多い。それは一種アレルギー中毒にも似た症状である。他にもストマイ注射のために耳が遠くなったという、西洋医学ではストマイ難聴は治らないものと言われている。このように薬を服用するのは、それなりの覚悟が必要だ。いくら医者が薬を処方しても服用するのは、あくまでも自己責任なのである。

明日に続く

2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。