いつだったか壁に鳥居に似せた絵を書いたり、鳥居に似せた物を置いたりしたら、
立小便やゴミの放置に役立ったとTVでみたことがあります。
ウマイこと考えましたよねぇ。
さすがに鳥居に向って小便はできませんから。
え?なぜかって?なぜってそうだからですヨ。
橋本先生の言葉をお借りすれば「そうなってんだ!」ってところかな。
「〜 お前たちの目前にはっきりと存在し、これという形は無いが、
自ら明らかにその存在を意識しているもの 〜」。
『臨済録』にこうありましたが、そいつ が何だかワタシにはわかりません。
でも、鳥居に小便ができないように目に見えなくても何となく意識せざるを得ないものってありますよネ。
操体とは「わけがわかるってことだ」と教わりましたが、
目に見えるものから目に見えないものまで、
わかってるようでわからないことっていっぱいあります。
でも、そのわけさえわかれば今までの非常識が常識に変わっちゃうかもしれません。
操体(橋本哲学)にも「太極の意志」「第七の天」というような
見えるものから見えないものまでの考え方がありますが(参考に 第七の天と太極の意志 をどうぞ)
そうした視点からモノゴトを捉えると「楽」と「快」や「刺激」と「接触」なども
当たり前なものとして理解できるようになってくるようです。
でも、その理解もアタマでわかったってだけじゃダメなのかもしれません。
それはきっとわかったつもりになってるだけかもしれませんから。
わかるってことは、それ を理解して、そいつ が理解するってことなんじゃないかとワタシは思うんです。
そうでないと、いつか化けの皮が剥がれてしまう・・・
え?オマエの皮も剥がれてるですって?あなたスルドイですわネ。
まぁ支離滅裂なヒヨコちゃんのたわごとですので、ご勘弁下さい。
一応つづく
中谷之美