東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「人間の病4」

昨日までは「人間の生活の過ち=病気」という事を書いてきたが、今日は突然原因不明の病気になった人のことについて書いていこうと思う。

「私って生きている意味あるのですかね?」

これは報道特集の「光と音を失って ある女子大生の葛藤と挑戦」で取り上げられた女子大生が言っていたコトバである。
彼女は普通の日常生活を送っていたのだが、急に視覚•聴覚を失った。
彼女のように人間は突然、身に覚えのない病気に襲われることがある。例え命の営みが100点満点だったとして回避出来ない病気が存在する。私も小学四年生の時に原因不明の眼球が動かなくなる眼の病気になったことがあるので彼女達の気持ちが少しだけでも理解出来るのだ。やはり治る確証がない病との戦いは自分の存在の意味さえ問いたくなるのも無理はない。私が病気になった時も「もしかしたらこのままいくと眼が見えなくなるのではないか」とよく考えたりした。
そんな経験があったからこそ現在は五体満足で生活を送れる健康の有難さを持つ事が出来たのかもしれない。
だが私のように完治した人間はこういった事が言えるかもしれないが、彼女のように完治せずに一生その病気と共に生きなければならない人には軽々しくこういった発言は出来ない。しかし以前にも述べたように全てを受け入れなければならない。「なぜ私が‥‥」等と葛藤しても病気は喜ぶだけでなのだ。

私が彼女の本当に凄いと思ったのが病気を素直に受け入れた事である。人間誰もが病に冒されると心に様々な葛藤が生じる。その病の原因、自らの行い、未来、様々な葛藤がある。その葛藤を打ち消し、現実を受け入れるのは誰にでも出来る事ではない。大抵の人は病を否定し、自分を否定し、自分と向かい合えずに生きていく。しかし彼女は生涯付き合わなければならない病気と正面から向かいあい前を向いて生きようとしている。
命の「生きようとする意思」と共に生を全うしようとしている姿勢がある。それだけでも彼女が生きている理由はあるのではないだろうか。この彼女の生きる姿勢こそが五体満足で生活する事が出来ている私達が学ぶべきことだと思う。

私は彼女が病気になる前にどのような生き方をしてきたかは分からないが決して彼女が命の営みの法則が赤点だったとは思えない。この世の中には彼女のように自分以外の第三の要因で病気になった人達が沢山いる。それは私達人類がどこかで自然の法則から外れた歩みを進めてきた以上、もしかすると避けては通れない宿命になっているのかもしれない。