「感覚」
人間の感覚の世界は非常に奥が深い。
例えば「気持ちの良さ」を例に挙げると同じ気持ちよいにしてもその時の心とカラダの状態で快の質は異なり、「すごく気持ちが良い」「少し気持ちが良い」と感じる人もいれば、「痛いけど気持ち良い」という人もいる。もちろん施術者の技術によっても左右されるものであり、コトバで定義出来るものではないが私は大きく四つに分けられると思う。
(1)命がもともと持ち合わせている生命感覚。
(2)脳が聞き分ける意識感覚。
(3)カラダが聞き分ける感覚。
(4)カラダが記憶している感覚。
(1)〜(3)を簡単に説明すると感覚の聞き分けを意識・無意識に行っているか、もしくは「委ねているか、委ねていないか」の違いである。
人間「心」がある以上、良くも悪くも自我が関与する。過去の情報を頼りに「こうしたら気持ちがいい」等と思考してしまいがちだが、それが二つ目の意識感覚になる。これと反対に自我の関与がなく全てを委ねる感覚が一つ目の生命感覚になる。
「どちらの方が楽か辛いか」という問いかけは比較対象させるという点において患者の思考への問いかけなので二つ目に当てはまると思う。逆に「快への問い掛け」は己の思考を介入させずに全てを患者の無意識に委ねるので二つ目以外になる。
これから四つ目の感覚について書いていきたい。
昔、三浦先生から手を切断した患者の話を聞いたことがある。無い手に触れると患者は触れられているような感覚になり、「快」「不快」を聞き分けているのだという。こういった患者の他にも無い手が痛んだり、痒かったりすることがあると読んだことがある。一般的には「幻肢痛」と言われているのだが、その原因は明らかにされていない。本来痛みとは傷ついた細胞から出る発痛物質の刺激を脳が受け取ることで感じるものだと言われているが、切断された手が無いのにこのようなシグナルが送られることは考えにくい。そうなると考えられるのが皮膚、またはカラダが痛みを無意識に記憶していると考えられる。つまり人間には「記憶感覚」という感覚の聞き分けも実在するといえる。
これら四つの感覚がリンクし「快、不快」という原始感覚に繋がると考えている。特に最後の「記憶感覚」には私達の頭を捻らせて考えても理解することが出来ないカラダの神秘がある。
現在の操体では人の意識ではなく、命やカラダが発信する(聞き分ける)感覚を重要視している。私達の頭よりもカラダや命が知っている情報の方が信頼性が高く、理に適っているからだ。私達カラダを診る側の人間はこういったことを意識に留めておく必要がある。なぜならば患者の感覚を無視した臨床では間に合わない時代になってきているからだ。