昨日のつづき
神経症というのは耐え難い心理的な苦痛から逃れるための象徴的な行動であると既に述べたが、象徴的な満足では決して現実の要求を満たしてくれるわけではない。だから神経症は、長年にわたって影響を及ぼし続けることになる。現実の要求は、まず感覚的に感知され経験されることにより、はじめて満たされるが、残念なことに、苦痛が現実の要求を押し隠す働きをしてしまう。苦痛がその要求を押し隠すとき、有機生命体はいつもはりつめた状態に置かれ、そのはりつめた状態こそが緊張というものである。その緊張は赤ん坊を、後には成人を、どんな手段を使ってでも、とにかく可能な方法で要求を満たす方向に押しやってしまう。この非常にはりつめた状態は、赤ん坊が生存を維持するためには欠かせないことなのである。いつか自分の要求が満たされるという希望を失ってしまったら、その赤ん坊は死んでしまうかも知れない。そんな有機生命体は、あらゆる代償を払ってまでも生き続ける生命力をもっている。その代償が「神経症」と言われるものだ。
このような神経症による心理的苦痛はあまりにも強く、到底耐えられるものではない。そこで満たされない肉体的な要求と感情を一気に押し殺してしまうことになる。これらから言えるのは、自然なものはすべて現実の要求であるということだ。たとえば、自分のペースで成長し、発達することがそうである。子どものときに、あまり早く乳離れをさせられたり、適正な成長期が来ないのに歩くことを強要したり、また話すことを強いられたり、運動神経器官がまだ発達していないにもかかわらず、ボール遊びなどをさせ、そのボールを手でキャッチさせるようなことを押しつるべきではない。
こういった神経症的な要求は不自然な要求であり、それらは現実の要求が満たされないことから生ずるのである。また我々は、ほめ言葉をかけてもらいたい要求をもってこの世に生まれたわけではない。が、事実上、生を受けてからずっと自分の真剣な努力に対し、ケチの連続で、所詮何をしたところで両親の愛情を勝ち得ることはできないと感じてしまうと、その子どもはほめ言葉を強く求めるようになる。同じように子どもが自己表現しようとする要求は、それに耳を貸す人がいないことによって抑圧される。そうした拒否が、止めどなく話す要求に転ずる場合もある。
愛されている子どもは、自然な要求が満たされており、愛情が子どもの苦痛を取り除いてくれている。逆に愛されていない子どもは、満足していないために傷ついている子どものことである。また愛されている子どもは、ケチをつけられたことがないので、ほめてもらう必要がない。そんな子どもは、両親の望みを満たす能力ではなく、ありのままの自分を大切にしてもらっている。それゆえ愛されている子どもは、セックスに対するあくなきことを知らない切実な要求を持った大人にはならない。両親に抱っこしてもらい可愛がってもらって大きくなったので、小さなときの要求を満たすためにセックスに頼る必要がないのである。
現実の要求というのは、内から外へ向かうもので、その逆ではない。抱っこして可愛がってもらいたい要求は、感覚に対する要求の一部である。その可愛がってもらい愛撫するのに接触する皮膚というのは人間の最大の感覚器官であり、少なくとも他の感覚器官と同じだけの感覚を必要としている。それは小さなときに皮膚に対して十分な感覚を受けないと、破滅的な結果につながらないでもない。どうやら各種の器官は、感覚を受けないと萎縮しはじめるようである。逆に正しい感覚を受けると、発達し成長することがわかっている。このように精神と肉体には、常に優しい感覚を必要とするのである。
子どもにとって満たされなかった要求は満たされるまで、他のあらゆる人間活動に優先し、要求が満たされたとき、子どもはそれを感じることができる。子どもは自分の肉体と環境を経験できるということだ。しかし、要求が満たされなかったとき、子どもが経験するのははりつめた緊張だけになる。緊張とは意識から切り離された感情であり、その必要な結合を欠いているために、神経症にかかっているものはそれを感じとれなくなってくる。神経症とは感情の病気であり、このような感覚は神経が伝達するのではあるが、それは決して刺激であってはならない。だからこそ操体における皮膚への接触は軽くソフトタッチなのである。操体では皮膚からからだの無意識に問いかけるというが、これは意識から切り離された感情を再び呼び戻すという微細な働きかけなのである。
明日につづく