東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症6

 昨日のつづき
 この世に生を受けた子どもたちが、はじめて感情を抑圧した瞬間に神経症は始まるのではないが、神経症につながるプロセスはこの時点から始まると言える。子どもは成長とともに段階的に、現実に背を向けるようになっていく。しかしある日、子どもを現実からそらしてしまう決定的な変化が起こり、現実的な要素より非現実的な要素のほうが多くなってくる。こういった臨界点に達した子どもは、神経症にかかったと判断してもいい。その後、その子どもは、二重の自己の構造、すなわち、非現実の自己と現実の自己に則して生きるようになる。現実の自己とは、有機生命体の現実の要求と感情である。非現実の自己とは、そうした感情の覆いであり、神経症の人間が自分の要求を満たすために必要な見せかけとなっている。

 自分の両親に絶えず馬鹿にされながら育った人は尊敬されることを望むようになり、自分の子どもが従順で敬愛の念が強く口答えをするとか、否定的なことを一切言わない子どもになることを要求する。また子どもじみた親は自分の子どもに、並はずれて早く成長し、あらゆる雑事をやってのけ、その準備が調うずっと以前に大人になることを望む。そう望むのは、自分がいつまでも大切にしてもらえる赤ん坊でいたいがために他ならない。

 子どもに非現実の人間になるよう求める要求が明白な形をとることは少ない。しかしながら、親の要求は、子どもにとっては暗黙の命令となる。子どもは両親の要求の渦の中に生まれ出てくるものであり、生活が始まった殆どの瞬間から、それらを満たすための苦闘が始まる。幸福そうに微笑んだり、声を出したり、バイバイと手を振ることを無理強いされる。もう少し後になると、座ること歩くことを、さらにその後には、両親が出来のよい子どもだと満足できるように、奮闘することを余儀なくされる。大きくなるにつれ、子どもに課せられる要求は、複雑になっていき、子どもはより成績を上げ、役に立ち、自分のことは自分でし、おとなしく、せがまず、しゃべりすぎず、利発なことを言い、活発であることを強いられる。子どもは自然で自分らしくあることを許されない。

 両親と子どもの間で繰り広げられている、子どもの自然で原初的な要求を否定する数多くのやりとりは、子どもを傷つける以外の何ものでもなく、ありのままの自分でいては、愛してもらうわけにはいかないぞ!と子どもに脅迫しているようなものである。こうした深い傷は、苦痛と呼ぶのに相応しい。このような原初的な苦痛とは、意識によって抑圧ないしは否定された要求と感情である。それらが害をおよぼすのは、それらを表現することも満たすことも許されていないためである。こうした苦痛は最後には、自分は愛されていないし、素地の自分では愛してもらえる望みは持てない、という思いに集約される。

 子どもは抱いてもらいたいと思っているのに抱き上げてもらえぬたびに、黙らせられたり、あざけられたり、無視されるたびに、あるいは限度以上に無理強いされるたびに、傷が蓄積されていくようになる。こういった傷が蓄積されるたびに、子どもはそれだけ現実の自分から離れ、神経症に近づいていく。そして、子どもが受けたこのような傷が、大人の潜在意識の中に苦痛として延々と棲みついている。実は我々はこの苦痛についてほとんど無知なのだ。

 操体は何故、快にこだわるのか? その理由はどうやら苦痛や不快といった感覚の奥深くに原因があるのを感づいているからだろう。そんな苦痛や不快感の根底に凄む神経症に対して、肉体からアプローチすることにより、快感覚を味わうというプロセスに操体は基づいている。神経症は神経に歪みがあるのであるが、その神経の両端につながっている心やからだにも当然に歪みを生じさせることから、その歪体を正すメソッドとして操体は最適な療法と言えるのではないだろうか。神経症についても操体は大いに期待できるものと思う。
明日につづく