東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症9

 子どもというのは、いつも自分の両親に気に入られようとする試みをもっている。それはまさに闘いと言ってもよい。その闘いはまず両親との間にはじまり、その後、家庭の枠をこえ、世間一般に及んでいく。なぜなら、子どもらは奪い取られた要求をいく先々に持ち込み、そのような要求は吐け口を求めずにはいられないからだ。そこで両親の代わりを見つけ出すことになる。その人たちを相手に神経症的なドラマチックな役柄を演じたり、自分の子どもたちを含め、誰でもおかまいなしに、自分の要求を満たしてくれる親代わりに仕立てあげたりする。

 たとえば言語的に抑圧されていて、一度として、喋ることを許されたことのない父親をもっている子どもは、聞き役を努めざるを得ない境遇にある。そんな子どもは、もううんざりするほど聞き役をさせられたために、自分の言うことに耳を傾けてくれる人を求める抑圧された欲求をもった大人になってしまう。そして多分、聞き手にはまず自分の子どもを間違いなく選ぶことであろう。

 基本的な要求が否定されることで精神的な要求が生じて、闘いの場は現実の要求から神経症的な要求へ、それは肉体から精神へと移動するのである。しかし精神的な要求は、現実の要求ではない。事実、純粋に心理的な要求などというものはひとつもない。心理的な要求というのは病的で神経症的な要求である。なぜなら、それは有機生命体が持つ本当の要求を満たさないからだ。

 たとえば、自分の重要さを感ずるためにホテルのいちばんよい部屋であるVIPルームに入れずにはおれない人は、今まで愛されたことがなく、生きるための自分の真剣な努力が無視ないしは抑圧されたために生じたある要求に、そうした形で吐け口を与えているのである。その人がホテルの支配人から名前で識別してもらう必要を持ち合わせているのは、子どもの時に、「息子」あるいは「娘」という十把ひとからげな呼び方でしか呼ばれなかったせいかも知れない。

 要するにそのような人は両親に人間性を無視されていたわけで、他の人たちから人間的な反応を象徴的に得ようとしているのである。もし両親に固有の人間として扱われていたならば、この重要さを感じたいという要求は取り払われたことであろう。神経症にかかった人間の言動は、古い無意識の愛され尊ばれることの要求に、新しい重要さを感ずる必要性を貼る作業にすぎないのである。

 そうした重要さを感ずるのが本物の感情であり、それらを追及することが必要だと信ずるようになる。スポットライトに照らし出された名前や印刷されている自分の名前を見るとよい気分になるのは、我々の多くが個人としての認識を強く奪い取られていることを如実に物語っている。名前が出ていることが紛れもない事実であっても、それは親の愛を求める気持ちを象徴的に満たしてくれているにすぎないのだ。聴衆や読者の人気を得ようとすることこそが闘いとなるのである。そのような闘いとは、子どもらを絶望感から守もってくれるものである。子どもが並はずれて勉強し、成績の向上にあくせくし、遂行するとき、それはまさに絶望感から守られていることになる。

 このように闘いというのは愛されようとする神経症的な希望である。自分自身である代わりに、もう一人の自分になろうと子どもは必死に闘っている。遅かれ早かれ、子どもはこっちの方が本当の自分であると、偽りの自分を信ずるようになる。その行為はもはや、自発的で意識されたものではなく、自動的で無意識なものである。それが神経症というものだ。

 こうした行動は始原の、人生の初期においてはじめて両親から受けた傷が後日、トラウマとして神経症が芽生えるのである。そうした傷が、当人の神経症の形態とは関係なく、すべての神経症の人間のあらゆる瞬間にまとわりついてしまう。こうした傷は当人に意識されないことが多い。それらがからだ全体にひろがっているためである。それらはさまざまな器官、筋肉、それに血液とリンパ組織にまで影響を及ぼし、我々は歪んだ行動をとるようになる。これが「生体の歪み」と言われているものだ。
明日につづく


2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催決定!
会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。

http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644