東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症21

昨日のつづき

 子どもは生まれて間もない歳月のうちに、他に方法がないことから自分自身を締めだしてしまう。声が大きく口数の多い子どもは、息子や娘が礼儀正しくおとなしい子であって欲しいと願っている抑圧された両親に、そう長い間、大目に見てもらえるとは思えない。親たちは子どもがそうした振る舞いをしなくなるまで、暴力やせっかんをするであろう。そこで子どもは、自分の一部に対して死刑を宣言しなければならない。その子は自分ではなく、両親にふさわしい生き方をしなければならない。同じ種類の行動は、両親が子どものためにあまりにも多くのことをしてやるために、子どもが自分のために何の努力もしないですむ場合にも生じる。その子どもは、いわゆる両親の親切に窒息しているのである。

 もしも非現実の装いが効果を発揮できなかったときや、両親から人間的な反応を引き出せない場合には、子どもはもっと絶望的な防衛手段をとらなくてはならない羽目に追い込まれる。子どもは両親の機嫌を損ねないように、あるいは暖かく親切にしてもらうために、自分自身にまつわるすべてを締め出すことだろう。子どもは、まるでコンピュータのように硬直した、形通りの話し方をすることになる。そうした子どもの考え方は、小さく凝り固まった幅の狭いものとなり、目を細めうかがうような目つきをするようになる。要するにそうした子どもは、自分の両親を人間らしい人間にするために、自分自身の人間性を殺してしまったのである。そんな子は両親のために、ついには自分自身を裏返しにしてしまう。男の子が女の子になってしまう現象がそれだ。

 操体のようにインテグラルな反応だとする見方は重要である。愛の要求は、考え方を切り替えれば変えうるような、ただ単に大脳だけに絡んでいるものではない。愛の要求はからだの全組織に連動し、いきわたっているもので、当然に肉体と精神の両方を歪めることになる。その歪みが心の防衛である。

 緊張を押さえきれないと、その結果として症候が現われる。子どもはマスターベーションをし、親指を吸い、爪を噛み、オネショをしたりする。これらはより強力な解放を求める手段なのである。ところがあまりにもしばしば見受けられることだが、両親は子どものためを思って、緊張のはけ口であるこれらのことをやめさせようとして、問題をいっそうこじらせ、もっとほかの手段を子どもに探すことを強制する結果を招いている。ある患者は、自分の胃の調子が悪いと両親が信じていたので、自分は絶えずおならをしていたと訴えた。「おならは不随意なものだと両親は考えていたので、それだけは受け入れてくれたのです」と患者は語ってくれた。

 小さな子どもは、問題を抱えているのは両親の方であることを理解できない。両親の問題は自分が行なうこととは関係なく存在していることを、子どもは知らない。両親のいさかいを止めて、両親らを幸せにしてあげることや自由にしてやることが、子どもの役目ではないことが子どもらには分からない。子どもは生きていくために、自分にできることをしているのである。

 生まれて間もないときから馬鹿にされつづけてくると、子どもは自分に何か欠点があるのだと考えざるを得ない。子どもは気に入ってもらおうとあらゆる方法を試みるが、子どもが行わなければならないことは、悲劇的なことに、両親が自分たち自ら自由になり幸福になるすべを知らないがゆえに、漫然としている。両親が自分の気持ちを引き立ててくれないので、子どもは自分自身に頼らざるを得ない。子どもは目に入るものを手当たり次第に食べ、誰も見ていないときには、親指をなめ、マスターベーションをし、やがては誰ひとりとして慰めてくれない苦しみを和らげるために自分で薬を打つようになる。大人になったときには最早、ただたんに神経症にかかっているだけではない、もう立派な神経症そのものになっている。

明日からの担当は香実行委員です、爽やかなそよ風をお贈りします。