東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症20

昨日のつづき

 心の防衛機制に関する概念は、フロイト学派をはじめとする多くの心理学理論のなかに見出すことが出来る。しかし、操体のような原始感覚的な理論からいくと、あらゆる防衛は神経症的なものであり、健全な防衛などというものはまったく存在しないと定義できる。フロイトの健全な防衛という考え方は、基本的な不安は保持されるべきものであり、すべての人間において遺伝的に備わっているものである、とする仮定に基づいているのだが・・・・・・。

 原始感覚的な理論では、正常な人間に基本的な不安が宿っているとする考え方を認めるわけにはいかない。なぜなら防衛というのは精神を生物学的な現象であって、単なる精神的な行動ではないとしているからであり、収縮した血管と強迫性のおしゃべりは、防衛であるという点では変わりないからだ。

 原始感覚的な考え方からすると、防衛とは、原始的な感情を自動的に阻止しようとする一連の行動である。腹部が自動的に引き締まるとき、ある感情を呑みこむとき、追い詰められて顔が痙攣するとき、肉体というのは確実に感情を押し殺しているのである。

 心の防衛には不随意防衛と随意防衛に分けることが出来る。不随意の防衛は原始的な苦痛に対する精神と肉体の自動的な反応で、幻想を描くことやオネショ、それに反抗やまばたき、そして筋肉の緊張などを列挙することが出来る。これらは日常的に、まっさきに使われる防衛のやり方で、子どもたちに生得の防衛でもある。たとえば呼吸器官の収縮は、子どもの声の調子と音質に影響を及ぼし、呼吸器官の収縮の過程とその結果生ずる押し殺された声は、人格組織に織り込まれ、その一部となってしまう。こうして人格は防衛のまわりに築きあげられ、防衛の不可分な一部となることだろう。

 また不随意の防衛には緊張を高めるものと緊張を解放するタイプがある。胃の筋肉の収縮は、感情を鎮めるが、その結果、緊張が生ずる。意識的な防衛が弱まっている夜中に、床のなかでおしっこを漏らすのは、緊張の不随意の解放である。他に不随意の解放としては、歯ぎしりや溜息、それに悪夢などがある。

 一方、随意の防衛は、不随意の解放のメカニズムがその任務を果たし得ないときに限って働く。それは喫煙や飲酒や薬物の使用、過食などが、随意防衛の例である。それらは強い意志の力によって、やめることができる可能性をもっている。しかし随意の防衛は、過剰な緊張を解放するために必要とされるものであって、たとえば交通整理の警察官に荒い言葉を投げつけられただけで、神経症にかかっている人間の外面的な人当たりの良さは破壊され、酒を飲む必要が生じてくる。このように随意と不随意の防衛形態の目的は、現実である本物の感情を排除することにある。

 こういった心の防衛は昼も夜も休みなく機能しており、たとえば女々しい男が眠っている間に突然、男っぽくなったりすることはない。その男の女々しさは、起きているときも眠っている間も繰り返されている精神物理的な出来事である。それは有機生命のなかに深々と織り込まれているのであり、要するに、当の本人が自分の自然な傾向を感じとれないために、不自然な行動が規範になっているということだ。自分本来の自己を取りもどすまで、そうした人間は、現に行なっている歩き方や話し方、あるいは行動しかとれないのである。

 大体において両親は子どもに、そのような防衛を要求している。そして、子どもたちはひっきりなしにしゃべり、生意気な言葉を使う子どももいれば、黙りこくっている子どももいる。どちらの子どもも、両親の要求を感じとり、それに応えているのであって、どちらの子どもも、自分自身の一部を締めだしているということだ。

 このように心の防衛は有機生命を保存するための適応メカニズムとしてすばやく行動に移る。その意味で神経症は、我々全員が遺伝的に備なえている適応能力の一部とみなすことが出来る。神経症は適応能力であるから、神経症をショックで与える装置などで吹き飛ばしてしまうわけにはいかない。防衛は、人間がまったくそれなしで振る舞えるようになるまで、慌てずに順序立てて一時に少しずつ剥ぎとっていかなければならないものである。

明日につづく