昨日のつづき
我々はこの世に生を受けたと同時に要求をもっている。しかしながらほとんどの人は、その要求を満たされることなく、人生の闘争の末に一生を終えることになる。生まれてすぐの原初的な要求というのはお乳を飲ませてもらい、おむつが濡れるとすぐにとりかえてもらい、マイペースで成長し、知能も発達し、抱っこされたり話しかけてもらいたいだけのことである。このような最も基本的、原初的な要求が幼児を形成している。
神経症へ向かう第一歩は、こういった要求が一時的であっても、満たされないときに始まる。赤ん坊が泣きだしたら抱っこしてあやしてやるべきであり、また、あまり早く乳離れさせるべきではないが、そんなことは赤ん坊自身、知る由もない。だからといってそんな基本的な要求が無視されると、赤ん坊は大変傷つくことになる。幼児は自分の要求を満たすために、自分にできるあらゆることをしなければならない。お腹が空くと泣き、どこか痒いところでもあれば、そういった自分の望みに気づいてもらうべく、足をばたつかせたりする。そのような要求が長い間、無視されたり、抱っこしてもらえなかったり、おむつを変えたりお乳を飲ましてもらえなかったりしたら、何とかして両親に自分の要求を満たしてもらうか、あるいは自分の望みをあきらめ、その苦しみを押し殺してしまうまで、赤ん坊は苦痛を味わうことになる。その苦痛があまりにも激しい場合には、実際に死に至ることもあるほどだ。
そんな赤ん坊は空腹感にも打つ手はなく、愛情の代用品を見つけ出せないので、空腹感や抱っこしてもらいたい自分の感覚を、意識から分離せざるを得ない。自分の要求や感情から自分自身を切り離すという分離は、耐え難い苦痛を締め出すための本能的な行動である。精神療法ではそれを精神分裂と呼んでいる。人間のような有機生命体が分裂するのも、自らの継続性を守るために行う本能である。しかし、満たされない要求がその分裂によって解消されるはずがない。その反対に、満たされない要求が生涯を通じて、影響を及ぼし、関心性を方向づけ、自分の要求を満たすために動機づけを行うのである。
そういった満たされない要求は、苦痛を伴い、意識に上ってこないように押し殺す。そこで、我々は代わりの満足を求めずにはいられない。要するに自分が要求する満足を象徴的に追及することになる。たとえば自分の意思表示することを許されない赤ん坊は、成人した後も自分の話を他人に聞かせ、理解してもらおうと強要する傾向がある。いずれは耐え難い意識からの分離に導いていく無視された要求ばかりか、無視された思いも、より大きな制御や解放を得られる方向に向かう。そして、感情は、幼児の場合では寝小便することによって、後にはセックスによって解放を得る、呼吸においては息を殺すことで制御する。
このように要求を満たされなかった赤ん坊は、自分の要求を象徴的なものに偽装し変化させる方法を絶えず学びとる。また適正期よりも早く乳離れさせられた幼児は、成人してからもガムを噛んだり、タバコをふかしたりするようになる。ほかにも象徴的な欲求として、どんどん食べ続けて食べ物を詰め込んでしまうようになる。それなのに、満たされた感覚をもつことは決してない。本当の欲求というのは愛に対してであって、食べ物に対してではない。が、食べ物と愛とは大変深い相関関係をもっている。だから、愛への欲求が感じられない時、あるいは抑圧されている時、食べ物への偽の欲求が創り出され、止めどとなく食べ続けられるようになる。しかしその欲求は偽物だから、それは決して満たされることがない。だが我々はその偽の欲求の中に住んでいるがゆえに、満たされることがないのだ。こうした食べ続けることや、タバコをふかしたい要求は象徴的な要求であり、神経症の本質は、象徴的な満足の追及にこそある。
臨床での問診においても、こういった患者は、自分の症状を執拗に話し込み、理解してもらおうとせずにはいられないのである。また操体の動診にいたっては、自分の感覚を意識から分離してしまっているので、十分にからだの動きを表現できないでいる。自分の感情やからだの要求から自分自身を切り離すというのは、「快」を味わうことに初めから遠ざかっているということだ。こんな場合、皮膚への軽い接触によってブロックが解除される可能性がでてくることに操体は深くかかわっている。どうだろう、操体に興味をもたれただろうか。
明日につづく