昨日のつづき
神経症には感情の抑圧があると昨日、述べた。この抑圧というのは常によくないものだ。いや絶対的に悪い、例外なく悪い。抑圧はただ、自分の生エネルギーを理解していないことを意味しているにすぎない。抑圧は我々の生エネルギーを無意識へと押しやって、我々の実在の地下深くに投げ出してしまっていることを意味している。そこでは、その無意識の生エネルギーは育ち、沸騰しつづけているだろうが、遅かれ早かれ爆発してしまうことになる。そんなふうにして、多くの人が気違いになってしまうのだ。狂気は抑圧の表だったものであるからこそ、こんなにも多くの人が、世界中で精神をかき乱されている。
いかなる種類の抑圧であろうとも、それはからだや心や魂を破壊してしまうことは確実だ。生エネルギーは、抑圧されるのでなく、それを超えていかなければならない。生エネルギーというのは、我々の自然な潜在的財産だ。我々はそれに磨きをかけることで、それは精神的開放につながってくる。抑圧すると、我々は束縛の中に捕らわれてしまう。だからといって放縦的になるというのではない。抑圧的にも放縦的にもならずに、もっと意識的に注意深くあらねばならない。
自分の生エネルギーに対して友好的で共鳴的にいることだ、決して極端になってしまわないことである。極端は分裂をつくりだしてしまい、そうなればいつも矛盾の中にいることになる。そんな自分自身のエネルギーと闘うことは不必要な浪費である。自分自身のエネルギーと闘っているとき、それは自分自身と闘っていることになり、とても勝てるわけがない。こうやって我々は人生のすべての機会を逃がしてしまう。だから、いつも抑圧しないよう気をつけていなければならない。抑圧しないこと、そして気ままにもしないこと。ただ気をつけて、あたりまえでいなければならない。その生エネルギーに受け入れやすく、呼吸しやすくさせるには、より感覚的になることだ。感覚的でないと、何も感じなくなり、存在の中でくつろぐことはとても不可能になってくる。それは、気もちよさを感じないに違いない、心地よさを感じないに違いない、至福を感じないに違いない、自然を感じないに違いない、きっと解放を感じないに違いない。
そういった感覚は神経組織が支配しているからこそ、その神経に働きかけるのである。何もしないそのままの神経は精神に人格を与えてしまう。それはゲオルギー・グルジェフがクンダバッファーと呼んだ精神的緩衝機のことであり、そもそも緩衝機とは車両と車両をつなぐ装置で衝撃を緩和するためのものだ。神経から与えられた人格は人生の質問にある既成の答えを持っていて、ある状況に対して、その決められたパターンから反応するというものだ。もし、神経が調整強化されていれば、精神には人格ではなく意識を与える。そして意識の人間は反応ではなく、感応することができる。どんな状況であろうとも受け入れることができ、その現実をあるがままに反映し、行為することができる。このように神経は重要なキーポイントになっているのだ。
この神経に直接アプローチできるのが操体であると、私は思っている。操体的感覚というのはまさに生エネルギーに友好的、共鳴的に接しており、それによってもたらされる快感覚こそが神経を調整強化するもっとも最適な妙法であると言えるだろう。
明日につづく