東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症2

 昨日のつづき
 昨日は、心とからだを分離できない関係に結びつけている重要な神経組織について触れた。それほど大切な神経であるにもかかわらず、実は大きな問題が横たわっている。からだにも心にもそれぞれ治療法が確立されているが、神経においては未だ体系化されていないのがそれだ。今日の精神療法の世界では、分裂と特殊化が横行し、過去一世紀のうちに、神経症の形態は実に多様化し、その結果、「治癒」という言葉が、心理学者の間ではもはや使われないようになったばかりでなく、「神経症」という言葉そのものが、いくつもの問題領域に細分化されている。したがって、感覚、知覚、学習、認知などに関する本は出まわっているが、神経症を治すためになしうることについて書いた本はないのが実情だ。

 神経症の定義は、その人の理論的な傾向によってみな異なる有様である。恐怖症とする人もいれば、うつ病とする人もいる。心身相関の症候、機能不全、さらには優柔不断とする人もいる。ジクムント・フロイト以来、心理学者は原因ではなく症候と取り組んできた。治療の全期間を通じて、患者とどうとりくむべきかを具体的に示す指標となるべき、統合されたある種の体系を、我々は欠いているのである。我々は、神経症や精神病の人間として生まれてはこない。我々は、我々自身そのものとして、ただこの世に生まれ出ただけなのである。からだについても同じことが言える。操体の大家である三浦寛師は言っている、「人は悪いからだとして生まれてきたのではない! だから臨床においても悪いからだとしてではなく、よいからだとして診るように」と。

 我々は神経症ないしは不安の時代に生きている。したがって、人間が神経症にかかっていても何の不思議もない、と言いたいところだが、何もこういった合理化を引合いに出して自分を慰める気など、私にはない。それよりも社会的に受け入れられるように改善された機能や症候的な救い以上のなにものかが、それに人間の動機に対するもっと完璧な理解があるのではないだろうか。我々がこれまで考えていた状態とはまったく異なる状態がきっとあるはずだ、身心の緊張や自己防衛にも無縁な生活が。そのとき、人間はまぎれもなく自分自身になりきっていて、これまでよりも深い感情と内的なユニットを経験することができるのではないかと思うのである。

 この状態を操体によって経験することができるのだと私は信じている。それはくつろぎという快適感覚を味わうことで、患者はまぎれもなく自分を取りもどし、その自分にとどまることができる可能性もでてくるのだ。神経症は感情の病気の一つであり、その中心には、感情の抑制があり、抑圧された感情が、さまざまな神経症の行動に変化する。神経症の症候は、不眠症から性的な倒錯にまで至っており、あまりにも多様なために、我々は神経症をとかく分類して考えるようになってしまった。しかし、各症候は、別個の病気ではない。神経症はすべて、同一の特殊な原因のために発生するものであり、同一の特殊な療法に反応するものである。

 ジグムント・フロイトは、人間として生まれたときから既に神経症として生まれ、神経症に始まりはないという、これは一部正しいように思う。人間は神経症患者として生まれてはいない、が、神経症の人類の中に生まれ、周りをとりまく社会がどの一人をも残さず、遅かれ早かれ、神経症に追い込まれてしまう。また、もっとも防衛機能性の備わっている人間が、社会でもっともよく機能するのだともフロイトは言っている。しかし、私はこの概念を絶対的な真理として受け入れることには賛同できない。
明日につづく