東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症17

昨日のつづき

 神経症の緊張をスポーツや運動によって、機械的に払いのけることは一応、可能である。現実に神経エネルギーを拠りどころにジョギングなどをしている人の大半は、緊張を振り切ろうとしている。しかし、原始的な感情を振り切る方法など実際には皆無であり、緊張は永遠に続くようにしか思えない。緊張を振り払おうと懸命な人たちを見ていると、まるで首を切られてなお動いている鶏のように見えてしまう。ある意味で神経症にかかっている人は、肉体で行なっていることとそうした行動をしているわけを結合できるようになるまでは、頭を切り落とされた状態にあるとしか言いようがない。

 緊張に対する肉体反応の拡がりに応じて、それを測る方法はいくらでもある。そのひとつに筋肉の収縮を尺度に緊張を定義する方法がある。それによると緊張は肉体にある種の逃走運動を準備させるので、その結果、筋肉繊維が短くなる。その筋肉繊維の変化は電圧、すなわち電気的な圧力の上昇をともない、それは筋電図として電子装置で測ることができる。しかしこの筋電図は筋肉繊維のきわめて小さな変化までは測定できない。だがこの方法の言わんとしていることは、緊張すると肉体の全筋肉も緊張するので、寝ても覚めても自身はくたびれているという点にある。これは神経症にかかっている人が、眠っているときより目覚めたときの方がさらに疲れている場合がままある理由を、解明する手がかりとなっている。

 緊張というのは全身的症状ではあるが、ことさら弱い部位に集中しがちである。ふつう人間の器官のなかには、ストレスを受けると緊張度が特に高まりを見せる特定の領域があることがつきとめられている。たとえば首の左側が慢性的に痛む人の場合だと、ストレスがかかっている状況では、右側より左側にずっと大きな緊張が生じている。

 緊張は感情が否定された結果もたらされる内面的な圧力であるが、その経験の仕方は各人によってもそれぞれ異なってくる。気分がすぐれない人もいれば、胃にしこりを感ずる人もいるし、骨格筋の緊張、胸のつかえ、歯ぎしり、嫌悪感、今にも悪いことが起こりそうな不安感、吐き気、咽喉のしこり、あるいはただ不安に悩まされる人もいる。緊張のせいで、口は動きつづけ、あごの筋肉は締めつけられ、瞼はふるえ、胸はドキドキし、心は落ち着かず、足は小刻みに動き、眼は飛び出さんばかりに大きく見開かれている。このように緊張は耐え難いものなので、さまざまな形をとって外に現われる。

 実に多くの人が緊張を経験するので、我々はそれを人間につきものの一つだと考えるようになった。しかし、真実はそうではない、だが不幸なことに、多くの心理学説が、緊張の避けがたさを自分たちの仮説の根拠にしているのは、とても残念なことだと思う。その一つの学説を打ち立てたジグムント・フロイトは、我々が健康であるためには、基本的な不安の周囲に防護網を張り巡らさなければならないと断定しているが、決してそんなことはない、なぜなら基本的な不安というのは、非現実の機能のひとつにほかならないからだ。

 神経症は、自分が緊張していることに自ら気づくことすらないように、緊張を拘束する。だが緊張していても不安であるとは限らない。恐れと不安の違いは状況に左右されるもので、生理学上の問題ではないからだ。恐れと不安の生理学的なプロセスは同じものだと思えるが、恐れの場合、人間は現在の状況に反応しているのに対し、不安にかられている人間は、過去に対してそれがあたかも現実であるかのように反応している状況だと言える。精神療法を受けに来るのはふつう、緊張が不安に転じたこの時点においてである。
明日につづく