東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

 操体は、楽な方にきもちよく動くのではない。楽と快の区別を明確にしているのが操体である。

操体は、楽な方にきもちよく動くのではない。楽と快の区別を明確にしているのが操体である。
楽な方が本当にきもちいいのだろうか?それは単に「楽でスムースでなんともない」のではないだろうか?

東京操体フォーラム実行委員含め、読者あるいは操体愛好家の皆様に申し上げたい。

「きもちよく動く」のが操体ではない。
その前に「その動きが快か不快か」という、診断分析(動診、動かして診る)という過程が必要だ。

動かしてみないと(確認してみないと)それが快か不快か分からないではないか。

勿論世の中には「きもちよく動けちゃう」人もいるが、これはホントの話、動きながら確認できちゃう、器用な人達なのであり、私のような凡人は、動かしてみないと、それが快だか不快だかわからない。

操体をやっている人の中には、それを勘違いして「自分がこうやってきもちよく動けるんだから、他人もできるだろう」と、安易に
きもちよく動いて」という方もいる。それは指導者の「おごり」というものだ。

また、講習で練習している場合、相手はある程度知っているので動いてくれる。これが本当の臨床だとこうはいかない。
言葉の誘導が適当でも同じ受講生なら動いてくれるが、お金を払ってくる患者様、クライアントの方々はそうはいかない。
「普通は動けない」というのをアタマに入れておこう。

そして、もう一つ考えていただきたいのは「楽なほう」≠「きもちよさ」ではないということだ。

これは「楽(な動き)」は運動を分析しているのであり、「快(適感覚)」は、文字通り感覚を分析しているのである。

楽、というのは「動かしてなんともない」「スムースで引っかかりがない」「違和感がない」ということだ。
つまりバランスがとれていて、ニュートラルな状態なのである。ある先生はこれを「無」といっておられるが、動かしてみた感覚には「楽」(スムースでなんともない、つまり無と言ってもよい)、不快(痛い、辛い、いやな感じ)、そして「ああ、きもちいい」という快があると思っていただこう。

つまり、楽と快は違うのだ、と認識していただきたいのだ。

この話しをすると笑う人もいるのだが、楽と快を混同するということは、例えばセックスの最中(笑)に、お相手が「ああ、楽だわ」「ああ、楽だよ」と言ったらどうだろう?

これくらいヘンなのだ。

また、もっと直喩的に言えば「愛の営みは楽できもちいい」というのはヘンではないか?
これは、愛の営みというのは「楽ではない」という認識が私達にあるからなのだ。

「楽なほうにきもちよく」という言葉は、言葉上は難なくアタマに入ってくるが、操体的に考えると、ヘンな言葉なのである。
楽なほうはスムースで何ともない場合のほうが多いからだ。

逆に、可動域が少なくても、気持ちいい場合もある。

ここで「快(きもちよさ)についてもう一つ。

確かに、ボディに歪みがない健康体で、生きているだけで気持ちいい、ということもありうる。
しかし、そういう状態というのはあまりないのが事実である。

そして、ボディに歪みがなくて、バランスがとれていて、動かしても楽でなんともないという、ニュートラルな状態がある。
これが「無」と言ってもいいだろう。

そして、快というのは「歪みがなくて、健康だから」と思っている方もいるかもしれないが、実は「快」とボディの歪みは密接に繋がっている。歪みがある場合、動かしてみると(動診)、快か不快か分かるのである。
これを「快不快の法則」という。

なのでどこかトラブルがある、バランスが崩れている場合のほうが強烈な快あるいは不快を感じることが多いのだ。


勿論人間の感覚というのは非常に微妙なものなので、痛いけど気持ちいいということもある。そういう場合はどうするか?
操体の場合「からだにききわけて」(アタマで考えない)やるかやらないかを決定する。

痛キモチいい。これは痛いけれど、味わってみたいというからだの要求があるのか?ないのか?
痛み、ちょっとした痛みだけれど、からだには何故か一度は味わってみたいという要求がある。
こういう場合、一度味わってみると、二度目はいらない、ということが多い。

楽な動きを問いかける動診操法を第一分析という。
対になった二つの動きを比較対照して、楽なほうに動かして、数秒動きをたわめ、瞬間急速脱力する。

これが従来の操体だ。

私達がやっているのは、橋本敬三先生が「きもちのよさでよくなる」「楽ときもちよさは違う」と言われたことから、三浦寛師匠が体系づけた「一つ一つの動きに、快適感覚の有無を問いかける」というものだ。これを第二分析という。

「楽(な動き)」をききわける動診操法と、「快(きもちのよさ)をききわける」動診操法は、そもそも違うのである。


一連の操体臨床の最中、あるいは終わった時、クライアントが

「ああ、きもちいい」「きもちよかった」あるいは「きもちよくて寝ちゃいました」という言葉を聞くと、ああ、操体をやっててよかった、きもちよさでよくなるんだなあ、と思う。

逆に言えばクライアントに「きもちいい」と言わせるのが操体臨床家としての冥利につきるところだ。

もう一つ言えば、クライアントがきもちよさをききわけ、感じ、味わっていると、その「きもちよさ」が操者にも波及し、操者自身のからだも何故か良くなってしまうというのも、「快」の妙である。

昨年末の暮れも差し迫った12月29日は第五日曜。
第五日曜には「塾・SOTAI」が開催される。

塾・SOTAIとは、操体法東京研究会の講習を終えたメンバーが参加できる、ブラッシュアップのための時間である。

通常午後から始まるのだが、この日は午前中から東京操体フォーラム実行委員が集まり、今年春のフォーラムについての打ち合わせを行った。一時間半程度の時間で、色々話をし、話題を詰めた。これで詰めたものを、毎週第二日曜早朝8時から開催している実行委員勉強会で、更に練った。

打ち合わせが終わった後、同席していた三浦先生も、参加した実行委員のアイディアの出しっぷりをほめていた。三人寄れば文殊の知恵ではないが、何か出るものだ。

その結果ひねり出たのが「入眠儀式」という単語だった。

この言葉が出た時の不思議な感じ、それが決定打だった。「ようし、これにしよう」という不思議な感じの空気が流れた。

春のフォーラムのキーワードだ。

息食動想には睡眠が入っていない。それは、寝ないと生きていけないし、睡眠は完全に自分ではコントロールできないからだ。同じようなものに、排泄がある。

文明国で売れる薬というのは睡眠薬と便秘薬らしいが、日本でも最近入眠薬が薬局で売られていたりとか、睡眠障害を感じている、睡眠障害とまでは言えないが、何だか寝付きが悪いとか、朝すっきり目が覚めないという話はよく聞く。

ちなみに私は生活を朝型に変えてから10数年経つが、眠れないということはあまりない。

また「眠れない」「寝付きが悪い」というクライアントの話を聞いてみると、寝る前に「寝付きが悪くなるようなこと」をしていることに気づく。それをやめればいいのだが、それがなかなかできないのが、現代人の悩ましいところである。

快眠と快醒(かいせい)のコツのコツ、これを「操体的に」「セルフケアで」「勿論きもちよく」紹介する。

4月26日(土)は、三軒茶屋ターミナルビルにて人数限定のセミナーを予定、27日(日)はいつもの津田ホールで「入眠儀式 快見快醒のコツのコツ」「快眠メソッド大公開」のような感じで行う。

ちなみに、この写真はフォーラム実行委員若手三人衆である。
彼らが会場で走り回る姿を見るのもまた楽しみの一つだ。

それでは一週間ありがとうございました。


畠山裕海

明日からは出雲之国からのメッセージです。