<それは「生命」を感性で学びゆくこと>
「操体」を学ぶのには、年齢も、性別も、国籍も、全く関係ない!
できるかぎり、柔軟な子供の生長が如く、“感覚で”学んでいくのだ。
病気や疾患に関し“自己責任”説を提言すると、私は考えてしまう。
先天性の疾患はどうなの?と、疑問が浮かぶこともあったのだ。
まわりが望まない、“本人が望んでいない”このような条件の際に、
周囲と比較する、対象で”心”を固めてしまいがちになるのだろう。
何かと比較し、生命そのものを、様々な条件で固めることもある。
私が聞いた話では、温古堂にTVやラジオで「操体法」が紹介され、
門前市を成すが如く、せわしい日々を、創始者橋本敬三師は数年間
過ごすことを余儀なくされたそうだ。
そんなある時、盲目の方々(治療家)が温古堂を訪れて「操体」の
臨床を受けた後でこう言ったそうだ。
「目が見えるようになったら、本当に操体法の起こす奇跡ですよね」
いつもが如く、ウンウンと頷きながら、相手の話を一通り聞いた後、
弟子の前でポツリと語った台詞が、私にはとてもシビれるのである。
「まだ(あの人達も)わがってないんだなぁ・・・」
この時、なにをもってわかって欲しかっただろうか?
そもそも、わかって欲しいなんて思っていなかったのかもしれない。
ただ、これだけは言える。
意識改革をしなければ、”ひとが健康である”とは、なにかわからない。
ひとりひとりのおさめ、これは自己責任分担なのである・・・と。
岡村郁生