<成長と生長の認識>
もっとも、人ひとりできることはたかが知れている。
ホントは、「からだ」と「本人」で“意識”も異なっているのだ。
[情報を得る]・・知識として知っている。形態として関わっている。
[魂で知る]・・・腑に落ちている。形のないものと関わっている。
ま、これではわかりにくいので補足してみよう。
私も「操体」を学ぶ前は、自分が自分を管理していると思っていた。
これは「本人」が「からだ」のことを「本人の一部」に過ぎない、
と言う認識でいるということに近いのである。
だが、「操体」の哲学思想を学び、実際に「からだ」の“要求感覚”
をききわける意味をおさめていくことで、それは「本人の一部」では
なかったことが腑に落ちてきた。
要するに、
「本人」不在で「からだ」の実在こそ「操体」の臨床であって、それ
が私の意識を変えて”生長”していく”おさめ”なのだと思うし、これが
何回も聴くであろう「からだにききわける」ことでもあったのだ。
これは「操体」を学びゆくことにおいても、「操体法」を学び途中で
止めた場合には、わかりにくいままとなるの理由の一つだろう・・・。
例えば、「自力自療」という概念に関しても似たようなコトが言える。
「本人」の意識で「操体法」をやっているのならば・・・やり直し!
一呼吸、『息』を飲みこみ、ユッタリお茶でも飲んでやり直すのだ。
(補足→「お茶を飲む」ことも当然が如く、修行そのものという認識)
「操体」の臨床として「自力自療」が成立するには「本人」ではなく、「からだ」の意識で「快適感覚」のなかで「操体法」をとおしているのである。
故に「本人」などは置いてけぼりで(“も”)良いのである。
私などは「自力自療」を通してしまうといつも涙が溢れて止まらなくなるのだ。
泣く理由は全くないし、わからないから不思議だが、涙を流すことで、抗ストレスホルモンが放出されていると言う説もあるが、それは所詮、形態の知識なんだろう。
毎回新鮮で「有難い!」と潜在する意識でも感激しているのだろうか・・・。
岡村郁生