(続き)
”意識”で触れ合う”接触”。
”皮膚”で伝え合う”空間”。
”想い”と”想われる”ことの調い。
どうかしら?ワタシから愛のメッセージ、受け取って頂けたかしら・・・。
じゃ、そろそろ茅ヶ崎の”間”に酔える旅人に戻って頂くわ、またネ~ッ!
・・・ぅう・・・ノンバーバルコミュニケ―ションをバーバルに変換して語るのは、
かなり大脳の前頭前野にドーパミンが出続けるせいか、中性的な思考になり、
毎日毎日、ほぼリアルと同様で環境の異なる夢を見るようになるんですよね。
ところで、私の実弟なんですが、ほとんど英語等ができないにもかかわらず、
今までに、タイ、ジャマイカ、バリ、インドネシア、西アメリカ、等に旅行
というか、滞在というか、一か月以上半年以内で出かけているんです。
その理由も仕事ではありません。理由を聞いても行きたかったと、馬鹿正直。
(今は私の実家のある静岡市のセノバ近くで、NERDというバーを営業中)
ただ、彼は言語的に世界中の様々な人種の方と語る必要はなく、雰囲気や顔、
身振り手振りだけで何とかなるよ!と豪語してはばかりません。
「からだ」の中にある大脳の側頭葉の奥にあるミラーニューロンは、相手の
身振り手振りによる感情や意図、そして行動の予測までこちらに感じる意味、
それを、今までの人間は生かしてきたからこその生命現象なのでしょうね。
だからこそ、「からだ」に教えて欲しい。
朝よ・・・僕はいきているのか。
昼よ・・・僕はいかされているのか。
夜よ・・・僕は、僕の命を他人に渡したくはない。
~僕は自分自身の肉体を俯瞰していた。
肉体が感じている苦しさ、痛み、熱。その一つ一つの感覚が理解できる。
なのに、それを上から見下ろしていた。 どうしてしまったんだ?
なぜそこに自分がいるんだ? あれは本当に自分なのか?
それなら、いまこうやっていろんなことを考えているこれは誰だ?~

- 作者: 竹沢うるま
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2015/02/20
- メディア: 単行本
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想いは想われてこそ輝き、想われることは想いあって満ちている。
写真家で著者の竹沢うるま氏は、混じり合う出会い、出来事に「からだ」を通す。
僕自身はまるで、「共感覚」の持主と変化したが如く、紡がれる文と一体になる。
竹沢うるま氏と共に体験した世界、それは、エネルギーとは何かを教えてくれた。
僕がもし「脳」とか、「経験」とか、様々な知識がなくなる時があったとしても、
感じることで「命」はつながっているんだよ、と・・・美しい文章が「皮膚」に沁みる。
空間に触れあって、草の匂いを嗅ぎ、土を舐めて、水を浴びて、息を吐いて吸う。
そんなことがとてつもなく、ありがたいことです、、、有り難い。
そう、読後に感じました。頭が柔らかいうちに、僕は読んで欲しいと思います。
そして、ほんの少しだけ日々の「からだ」に感謝を。
人に、断定的な物の言い方をする人々が、行動と言動に自己責任を負って欲しい。
操体はそう伝える。㎜程度の意識は、地球をまるく美しくみせてくれるのだから。
※今日の一言&ネガティブエナジーを防ぐために。
「僧肇は『天地と我は同根。万物は我と一体』といっているが、
私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人に対して、
南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつつ、語った。
「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢を見ているようなものだ」
=碧巌録、四十より=