東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ミタテ、ミタテられ。

おはようございます。

 

昨日は、感じるミタテということを書きましたが、感じるミタテは奥が深いです。

感じとるという事は誰でもできる事なのです。ですが、臨床に応用するとなると、からだのことを相応に識っておかねばなりません。

最低限、からだの動きは8つあり(8つしかなく)、どこがどう動けば、全身にどのように連動するかという事が、わかっていなければ、からだがその要求を示してくれていても、それをキャッチすることはできないでしょう。

そして、わかっていても、自分自身で実際にやってみて体感していないと、病んでしまっているからだに共感することはできないでしょう。

 

ミタテる側の感じとる能力。これは人それぞれです。しかし、それは優劣とか、そういう比較対象するものではないと思います。他の人のミタテ方と自分のミタテ方が違うからといって、自分が間違っているとか、そうことではないのです。

相手のからだとの極性というものがありますが、相手のからだだってミタテる側をミタテているのです。相手のからだも操者をミタテて、その要求を表してくれる。

「この人だったら、このような要求にも応えてくれる」「この人には、今日のところは、こういうところをサポートしてもらおう」といったように、その要求はミタテる側に応じて変化する。

操者も資質や熟練度を相手のからだにミタテられているんですね。熟練度が増すほど、相手のからだの要求もより本質をついたものになるでしょう。未熟であれば、今日のところは・・・となるでしょう。

ですから、その空間を介して感じとった事というのは、間違いはない筈なのです。その時空での関係性に於いて最適なミタテであり、そこから操法につなげれば良くなることは確かなのです。

この良くなることを、もっともっとより良く高める為に、操者は自分自身、精進するしかないのだと思います。

その精進は苦に向かうものではなく、快に向かうもの。それが操体の善いところなのであります。