東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

労働にくいつく➀

 テーマは 「くいつく」。 

 私の初日のタイトルは 「労働にくいつく」 から始めたい。

 

 「くいつく」 というからには、自分にとって、きっと何か必要なものであるに違いない!  そして、くいつくにはその動きが伴ってくる。  それが肉体的、もしくは心理的な行為であっても、自分の成長にとって外すことのできない何かであるはずだ。

 

 どんな動物であってもからだに応じて働いている、つまり動いているのである。  自分の身を生かすために働くとは、これすなわち 「くいつく」 ということである。  ある動物は他の動物よりも多く働き、また別の動物はそれより少なく働き、しかしどれもそれぞれに自然な量だけ働いている。  

 

 我々人間も働いている。  ある人は多く働き、他の人は少なく働いている。  しかし、牛のように働いても価値がなく、また働かなくても価値がない。  働くことの価値は、量ではなく質にある。  残念ながら、我々はみな、質の点ではあまり感心した出来栄えとは言えない。  自分の今までの働きが悔恨の原因となっていれば、それは有用であり、そうでなければ何の価値もない。

 

 どんな動物も、分相応に働いている。  ある動物、たとえば回虫は、まったく機械的に働いており、回虫にはこれ以外を期待できない。  なぜなら、機械的でない脳をもっていないからである。  また、別の動物は感性に従って、働いたり、ゆっくり動いたりするのは、 この動物の脳がそういう構造になっているからである。

 

 もう一つの動物は、労働と呼ぶ運動を知性だけで理解はしているが、この動物は他の脳を持っていないから、それ以外を求めることはできない。  自然がこの動物にこの種の脳を造ったのであるから、他の何ものも期待できない。

 

 このように、労働の質は、どんな脳をもっているかによって決まってくる。  種類の異なる動物について考えてみると、一つの脳を持っている動物、二つの脳を持っている動物、そして三つの脳を持っている動物が存在している。  

 

 人間は三つの脳を持っている動物である。  ところが、三つの脳を持っていると、往々にして二つの脳を持っている動物の、たとえば、五倍も働かねばならない。  動物としての人間は、からだに相応した生産性を上回る労働をするように作られている。  これは人間のせいではなく、自然のせいである。

 

明日につづく

 

 

2018年春季東京操体フォーラム

4月30日(月)に開催致します。

テーマは「スポーツ障害と操体」です