私が操体の臨床を初めて受けたのは10歳位の時でした。
確か足肢の操法のモミをしてもらったことを記憶しています。
当時は父が何をしているのかもよく分からないまま、「何かきもちよいことをしてくれる」という期待と共に帰りをずっと待っていました。
今になって振り返ってみると子供の頼みとはいえ、父には無理なお願いをしていたと思いますが、現在このように父と共に学問の道を歩んでいけているのもこの時の経験があったからで、何か必然的なものであったと今では思っています。
あの時体感したからだの悦び、感動は臨床家となった現在の私にとってかけがえのない無形の財産となり、あの時受けたヒビキを今度は私が伝えていきたいという想いで臨床に臨んでいます。
このような自身の経験から思うことは臨床とは大人になるに連れて忘れていった生命の記憶を辿っていくものだと思います。
操体の分析法が「楽と辛い」から原始感覚の根底にある「快、不快」に変化していったこともこういったことが関係しているように感じますし、生命記憶を辿っていく一つのキーワードになるのがヒビキなのではないでしょうか?
こうした捉え方をしていくと、臨床で本当に診なければならないものは現在だけでなく、そこに至るまでのプロセス、つまり過去も含めたものを診ていく必要があるように思っています。