「すごいね~がんばったね!」
このように親に言われて喜ばない子供はいないと思う。
自分自身を産んでくれた親は、どの子供でも考えるきっかけを産む。
「頑張ったね」
細かいことを一切伝えなくても、なんとなく褒めている気分になる。
受け取るのは、内にある感覚の芽。
種から芽吹いて、必死に上を目指して縦に伸びて、横へ拡がる。
元々無邪気であっても、邪念はなくとも、知ることの放棄は重い。
どこでも、いつでも、自由気ままに振る舞っていいんだよ。
明るく元気であれば、子供なんだから大目にみてくれるからね。
いや、自分勝手は不自然。ひとことで言えば、「残念!」
昔、私の接骨院で、あまりに傍若無人な振る舞いの子供を注意した。
「私は子供を怒らないことにしているの!褒めて育てるんです」と、
母親に言われて、まだ若かりしワタシもキレそうになって堪えた。
子供の歪みとは、外からの侵害刺激(=ストレッサー)から生じる。
それだけでなくそれを受ける(感じとる)中からの侵害刺激もある。
少なくとも、接骨院の中は運動の為の公園ではないのだから、他の
患者さんに何かあってからでは困る、イヤならお金は要らないから、
他のところへ連れて行って、思う存分遊ばせてきて下さいと言った。
子供を縛っている可能性は、どの親も身に覚えはあるだろう。
俯瞰してみつめること。
言葉を発することで視野の狭さもわかる。
操体は何を元に指導していいか認識できる。座標と軸は必要だから。
どんなに狭くとも地域の健康指導は、自然な想いの指導を兼ねる。
ワタシはこれからも、どのように操体として組めているか、考える。
それ故に、子供という表記で書き、子どもと書かぬ理由も今はある。