東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

般若心経の考察 ~ 般若身経解説➀

今回のリレーブログのテーマは操体経典とも言える 般若身経を解説である。

 

 仏教経典の 「般若心経」 と 操体経典の 「般若身経」 は 「心」 と 「身」 のひと文字に違いがある。 操体の 「般若身経」 を解説する前にその元になっている仏典の 「般若心経」 についてまずその意味を探っていきたい。 元にある般若心経を知らずして操体の般若身経を語るのは、心経に対していささか失礼であると思う。 そこでこの珍重すべき、珠玉のような僅か二百六十二文字からなる経典をあらためて考察してみる。

 

 はじめにお断りしておくが、私は古今東西におけるすべての宗教に関わる 「信仰」 というものには、まったくもって興味がない。 しかし、仏教にまつわる哲学的、心理学的なドグマについては、「仏伝文学(サンスクリット文学)」 という学問体系において、非常に興味がある。 これから述べる仏典の考察は、無宗教ではなく非宗教者としての個人的見解である。

 

 世に般若心経を解釈、講義した書物は、仏教伝来以前の昔から山ほど書かれている。 なぜなら、仏教経典の中でもこの般若心経がきわめて短い上に、大きなご利益のある経典として、現在まで永く尊ばれているためである。 しかし、それらの書物を読みあさってみると、まるで見当違いの評価や解釈が多いことに気がつく。 仏教学者の偉い先生方の中には、経典文字の正確な意味さえつかめずに、縦横無尽にあてずっぽう的な理解に基づいて、拉致もない放談をやっている方も少なくない。 

 

 まずこの経典の経題(お経の題名)についての誤解を考察してみる。 まず仏伝の流れからいくと、鳩摩羅什(仏典翻訳者:クマーラジーヴァ)の訳では、「摩訶般若波羅蜜大明呪経」 と訳している。 鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の訳には 「大明呪」 という文字があるが、何を意味するのか? とても不可思議な感じがする。

 

 次にその鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の二百年ほど後に、玄奘三蔵(唐三蔵法師)が訳した経題は、「般若波羅蜜多心経」(ハンニャ・ハラミッタ・シンキョウ サンスクリット原語:Prajñā‐pāramitā‐hṛdaya‐sūtram:プラジュナー・パーラミーター・フリダヤ・スートラ)となっている。 この題名ならまさしく梵語(サンスクリット語)の原名に合致している。 ところが、経典を訳す際に 「魔訶般若波密多経六百巻」 という膨大なお経の中心的要部分を要約して説いたものだと、誤解してしまったようだ。 

 

 何故そのようになったのか、先達者の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の経題には 「摩訶」(mahā:マハー)という 「大」 の文字が付けられていたために、そのような見当外れの解釈になったものと思われる。 それによってこの経題原著者の願いは裏切られてしまうことになる。

 

 そして、その後、宋代にインド出身の訳経僧で施護(Dānapāla:ダーナパーラ)という人が書いた訳本においては、「聖仏母般若波羅蜜多経」 という経題になっている。 この経題に至っては、「聖仏母」 という文字が頭にあって、「心」 の文字が省かれている。 これも不思議に思えるのではあるが、これらの題名が何か不可解に感じてしまうのは般若心経を 「大般若経」 の略述だと捉えているからであろう。

 

明日からは、般若心経の考察 ~ 般若身経解説へと話を進めていきたい。