問い合わせがあった出張施療先は、兵庫県の三田市だった。 都市部からは郊外ではあるが、大阪、神戸への通勤圏内にあり、そのベッドタウンとしてサラリーマン人口も増え、また最近は学園都市でもある。 施術依頼のあった自宅に伺うと、電話してきた本人ではなく同居している義母が患者であった。
その義母は1年前に脳梗塞に倒れ、四肢の動きが不自由になり、リハビリ生活を余儀なくされていた。 電話してきたその家のお嫁さんは家庭療法研究会で教わった操体法をやってはみるものの、なかなか効果が出ないので、プロの操体家に委ねることにしようと思い、当操体院にアクセスしてきたものだ。
その後、3回、出張施療に出向いた結果、僅かながら効果が見られたので、できるだけ操体の本文である自力自療に近づけようという思いから、リハビリ的なヨーガを指導することとした。 ヨーガと言ってもからだの末端の手と足に限ったヨーガを日課として続けてもらうことにした。 これが後に私が 「操体ヨーガ」 と名付けるものに引き継がれていくのである。
それからは月1回のペースで出向くことになった。 そして、3か月も過ぎる頃には、その効果に驚きを隠せない。 それを指導したのは私であり、本来的には自慢したいところだが、やはりその指導されたリハビリヨーガを信じて、一心に反復継続してこられた本人の努力の賜物である。 日常生活するのに最低限必要なからだの動きをほぼこなせるようになったことは奇跡に近い。 これには私自身とても驚いている。
私の指導したリハビリヨーガは本格的なハタ・ヨーガと言えるようなものではなく、どちらかというと、からだの感覚を重視した操体的なヨーガであった。 この時は行き当たりばったりの操体的ヨーガであったが、この患者さんの回復ぶりを見るにつけ、真剣に操体とヨーガの融合を研究するようになった。 患者さんから教わったともいえる、まさに操体ヨーガの始まりである。
その後、ハタ・ヨーガのアーサナ(体位)を操体で分類する8つの動きに洗い出し、感覚重視の動きに改良する研究を始めた。 またハタ・ヨーガにはない全身への動きの連動もヨーガに組み入れたのである。 これを体系的に編纂しようと思った。 それには薬品開発の治験じゃないが、被験者による効果を見極める必要がある。 いわゆるヨーガセラピーなるスペースを確保する必要がある。
さあ、こうなってくると大阪で夜のお嬢ちゃんを相手にしている場合じゃない! しかし、無責任に院を閉鎖するわけにもいかない。 今や、当院を当てにして来院する患者さんも少なからずいる。 どうすればいい、困った! こんなときに、またあの精神療法のヘルプ要請が来た。 それどころではないのに!
それを断り切れない私は、仕方なく出向いた。 その帰り道、私が以前通っていたカイロプラクター養成所の前を通ると、一人の男が出てきた。 向こうは軽く会釈をするが、思い出せない。 近くまで来てやっと思い出した。 私と一緒にカイロを学んでいた人で、今はこの養成所でカイロの講師をしているという。
その彼がビアガーデンのサービス券を持っているというので、二人で飲みに行くことになった。 お互いの近況を話すうちに、彼は近いうちに独立開業を目指しているというので、これは渡りに船だと思い、当院を引継いでもらえないかと打診した。 彼は一度、現地を見たいと言ったので、善は急げ! である。 その日の夜に当院を案内した。 彼はカイロを学んだ後、オステオパシーの専門スクールへも足を運んでおり、臨床には自信を持っているようだった。 また彼は自分で夜型だというのも、好都合であると思った。