(つづき)
原始感覚の快は「からだ」が感じているのです。
環境が変化しても「からだ」は常に、生命現象の状況を感じています。
これは、天然自然の大法則ですから、時代が変わっても変わりません。
実際、大昔の人が残した書物を今読んでみても、現代に通用していること、
何にも違和感のないことも、かなりありますよね。
(勿論、同時に今では疑問に感じることもあります)。
そこで、世紀が変わっても読み継がれる書物のメッセージ性を紐解けば、
普遍性があり再現性も高いことは、その書物内容が本質的であるからです。
そうでなかった思想や書物は淘汰されて、失われていくのが自然でしょう。
普遍性のある本質的な考え方や行動とは、結局はシンプルなんですよね。
閑話休題。
ある患者さんと話していたときのことです。
その人は「コロナが背景にあるだろうけど、このところ、隠れていた本質が
露呈するようなことが世界中で巻き起こっているんじゃないかなあ。
それを乗り越えたときに、新しい世界が構築されるような気がする」
と、語っていたのは印象に残りました。
時代の最先端に目ざとく、いち早く流行を取り入れタイミングよく便乗すれば、
その都度利益を得ることも可能ですが、それは、あくまで時の流れに乗る能力
に長けているだけです。
「環境」との相関性で本質的かどうかについては、別問題と思うんですよね。
それに、「環境」としての地球温暖化が進んでしまっても、
赤道直下や南極北極などでない限り、地球のなか日本には四季があります。
変わらず繰り返されることも、根本的な住処環境には、変わりありません。
一雨ごと春~初夏へと向かって、季節はちゃんと移り変わっていきますよね。
そんな中、いろいろあって、世界は劇的な「環境」のリストラを起こしていく。
「環境」をシンプル化して、その後にどんな世界・社会が生まれるのか。
操体を学んでいて想うのは、本質的な生命現象を続けつつ、今できる目標と、
それに向かう継続的な行動を続け、変化を感じることが大切だと想うのです。
(続く)