おはようございます。
病気やケガがあるから治癒がある。
病気やケガが無ければ治癒もない。
治癒の対義語は発病だそうですが、発病があってはじめて治癒の言葉の意味が生じてくる。
発病が無ければ、治癒という言葉も意味を成さなくなる。
操体の創始者である橋本敬三先生は、医師でありながら、よく「病気なんかねぇ」と仰っていたという。
また、本のタイトルにもあるように「からだの設計にミスはない」とも仰っていたという。
しかし、現実問題として、いつの時代も病に苦しむ人は大勢いる。
そこで創始者は、からだの設計にミスはなく、本来は病気などしないように出来てはいるが、人間の生き方、考え方に間違いがあるのではないかと考えるようになった。
この天地、大自然に生まれてきたという事は、それだけで有難く尊いものである。
天地、大自然は認めてくれている。
これは、大自然の一員として、自然への適応性を与えられて生まれてきたという事でもある。
生まれてきた私達は、みんな一様ではなく個性を持っている。
その個性は、時として世間の標準思考や規範による建前から、先天性の○○病とされる事もある。
しかし、そうした人間社会の思惑とは関係なく、無意識にも呼吸が出来ている。
呼吸が出来ているという事は、すでに大自然から恩恵を与えられているという事であり、人間社会がどう思っていようと、大自然は「この世界に居て良いのだよ」と認めてくれている事でもある。
人間社会の枠組みの中だけで考えれば病気とされる事も、大自然からの観点ではどうなのだろうか、という考え方も必要だと思う。
大自然が与えてくれているものをしっかり受取り、生命エネルギーの入出力のバランスが間に合っているならば、不快症状は生じずに快適に生きていける筈なのだ。
本人にその自覚はなくとも、からだはそのような働きをしている。
また、生命体としての本音は、それを望んでいる。
しかし、人間には本音より建前を重んじるところがある。
それによって、大自然からの恩恵を受取れなくして、バランスを崩し不快症状を生じさせてしまっている。
そこに気づき、みんなが皆、大自然からの恩恵を十分に受取れるような生命活動、考え方に少しづつでもシフト出来たなら「病気なんかねぇ」という言葉も現実味を帯びてくると思うのです。