共に生きている生命を感じられるから、
生かされている環境の空間を感じられるから、
からだは「からだ」、といただける。
巻き込みながら、巻き込まれている「からだ」。
「からだ」からのメッセージには、
その「からだ」がききわけていること(もと)も入っている。
「からだ」にとって自然なことは、
いつだって「からだ」が教えてくれている。
理屈では、
言葉のおもて側から眺めているだけで、
分かったような、分からないようなことも、
(からだ主語)
その言葉の憶にふれることは、
メッセージを感じ取ること。
感じ取れるのは、循環の「ながれ」。
気づくと、「からだ」に必要な吸気は入ってくる。
「感覚=表現」であらあれてくる「からだ」は、
共に生かされながら生きる生き方そのもの。