このブログを読んでいるみなさんは、今まで大きな怪我や病気をしたことがあるだろうか。
一度でもそういう経験をすれば、何かしら自身の健康について、
またこの「からだ」のことについて考えを巡らせるきっかけとなり、
人によってはがらりと心変わりをして、生活意識も変化する方もいるかもしれない。
寿命という言葉も、急に身近な語感をもって受け取られるかもしれない。
私について白状するならば、幸いなことに今まで大きな怪我や大病をしたことがないせいか、こんな健康体がいつまでも続くような気持ちがこころのどこかにある。
そんな人生の油断を見透かされてか、はたまた単なる普段の生活のしっぺがえしからか、数年に一度くらいのペースで突発的なからだの不調が現れることがある(からだの不調というものは大抵そのようなものかもしれないが)。
例えば、前日に特別からだを激しく動かしたわけでもないのに、急に膝が痛くなって歩くことすらままならなくなることもある。呼吸法やからだのうごきを通したり、色々とからだに向き合っているうちに気が付くと数日のうちにあれは何だったのかという感じでその痛みはどこかへいってしまう。
また、とあるライブハウスで演奏中、急に頭痛がして貧血みたいな感じでヘロヘロになってしまい、それでもなんとか最後まで演奏しきったということもあった。
頭のことだったので、念のため検査などしてみたが、特別、脳に異変は見られず、肩こりの薬が処方されて終わった。これも1日2日してケロリとどこかへいってしまった。
こういったいつものリズムとは明らかに異なる体調の変化が、数年に一度、油断した頃にやってくる。前は、この不可解な異変に驚いたり、焦ったりするしかなかったけれど、最近は流れる日常のなかでのある種のきっかけとして、少しありがたいこととして思えるようになってきた。
大抵、こういうときは「わたし」の意識というのはチーンと静かになって、ただただわたし以外の要素に耳を傾け、委ねている時間と空間を送ることとなる。
こういった「いつもと違う感じ」は、当たり前に日々を送れること、流れていくことがどれだけ緻密なバランスによって成り立っているかということを身を通じて痛感させてくれる。
当たり前に流れていくことは、健康という大きな循環のなかに支えられているからはじめて実現できていることで、その大いなるバランスのなかでは、わたしという存在もほんの一部の要素でしかない。