家の周りに自生している植物を探索するようになって、
最初の頃は、なかなか図鑑にのっている本が見つからなかった。
「キュウリグサ」なんていう名前のついた植物は、たくさんの淡い青色のかわいい花が図鑑に載っているが、この花は実際は2mmくらいの大きさなので、サーっとながしてみていると全然気が付かない。
本腰を入れて、しゃがんで食い入るようにその辺の草を観察すると、以外とすぐ見つかる。一度見つかると不思議なもので、次からはすぐ気が付くようになる。
植物学者の牧野富太郎氏が「牧野富太郎植物記」のなかで
「植物となかよしの友だちになるためには、まずその植物の名を知ることです。(途中省略)草の名を知ると、その草はもうわたしのなかよしの友だちになりました。わたしはなんどもこの友だちにあいにいって、花のしくみや、葉の形、実のすがたなどをこまかくしらべ、しっかりと頭におぼえこみました。
それからというものは、いつどこで出会ってもこの草はわたしにほほえみかけてくれるようになったのです。」
と語っているが、なんだかとてもわかるような気がする。
一度しっかりと出会った植物は、次からは別の場所で遭遇しても、馴染みの友だちのようなきもちがわいてくる。気のせいかもしれないが、植物がこちらをみてくれているように感じることもある。牧野氏の『ほほえみかけてくれている』という表現がそこに重なる様におもう。
先述のキュウリグサも出会うまでは全然気が付かない存在だったが、一度出会ってからは、少し歩けば目に入る感じで身近な存在へと変化した(実際、我が家の玄関を出て、車道の向こう側にいたのをみつけたときは「あ、こんな近くにいたの?」と驚いた)。
普段いろいろな情報に触れているけれども、見ていないもの、見えていないものもたくさんあることを思い知らされる。
「目」という感覚受容器を使って、日常生活で見ているものが、なんだかとても限られたものになっているような気もちがしてくる。
そして、植物を眺めていると、刺激的な情報を見ているというよりも、目を通して触れているような感覚になるのが興味深い。