(昨日のつづき)
左側に意識が向くのか、右側に意識が向くのか。それによって作業の能率や「からだ」にかかる負荷が変わってしまうということを、こういった作業をとおして初めて実感したのは、また別のにんじん作業をしていたときの話です。
この作業は、洗浄されてコンベアを流れてくるにんじんの頭の向きを揃えていく作業でした。コンベアを挟んで何人かで作業したのですが、このときは立ち位置に対して、流れの方向は右から左でした。
右からどんどん流れてくるにんじんに対して、自分の右側で作業し続けるのは、時間が経つにつれかなりしんどかったのを覚えています。慣れてくると、作業自体はそれなりに速く対応できるようになっていったのですが、体幹が右側に捻れ、腰や右の体側が痛くなり、「はやく休憩にならないかな」と思いながらの作業でした。
作業の動きには慣れましたが、「からだ」の「うごき」としてはとても違和感がありましたし、それは「痛み」という「からだからのメッセージ」としても受け取ることができました。これは速さの問題ではないと確信したのは、先日のにんじん収穫作業のときの話に戻ります。
にんじんの収穫作業が早く終わり、残りの時間は倉庫内での箱積み作業になったのですが、自分の立ち位置からすると、箱は右から左に流れてくるので、右側に意識を向けながら箱を受け取っていきました。
このとき、収穫作業とは打って変わって随分とペースはゆっくりになりましたが、ゆっくりであっても右側に意識が向くと違和感があり、速くても左側に意識が向いていた収穫作業のときの方が自然だったと感じられたんです。
このような体験をとおして、「からだ」には「意識」が向きやすい方向とそうでない方向があり、それによって「感覚」や「うごき」など、発揮される能力が変わってしまうということを改めて実感することができました。
無心になって動いているときは、「こうやって動こう」なんて考えて動いているわけではありません。無意識に動いているその「うごき」が、作業で身に付けた「慣れ」による「自分の動き」なのか、それとも、もともと「からだ」に身に付いている「からだのうごき」のか。
作業自体の効率を考えるのはもちろんですが、「作業に慣れたから動けるようになる」というだけでなく、その効率を支えてくれている「からだのうごき」を基準にした作業工程の動線を考えていく必要もあるのではないかと感じています。
「からだのうごき」が「無理」なく表現されるような流れを現場につくっていくことは、「からだのうごき」の「ながれ」を生かしていくことにもつながっているとおもうんです。
2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。
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