(昨日の続き)
実践するなかで感じられることはあります。
意識的にゆっくり動いてみることを実践するなかで、ある時に「からだの動き」と出会う。
あぁ、ゆっくり、ゆっくりという問いかけを通じて、普段は「私の動き」としか感じられていなかった身体活動の世界から、「からだの動き」の存在に気が付くきっかけにもなっていたんだ。
普段、自分がからだを使って何かをしようとしていたのは、自分の動きで、でも本来はからだにはからだの動きというものがあったんだ。
そのことを知らずにからだを使ってきたんだ。
なんか、チグハグ感を感じていたのはこういう事だったのかもしれない。
からだの動きと出会い、色々なことを感じなおす中で、ではこの「ゆっくり」という言葉に宿っているものはなんなのだろうと思うようになりました。
表現の速度を遅くすることだけじゃなくて、もっとからだ本来のリズムみたいなものと呼応するようなことに繋がっているんじゃないか。
いままで自分自身に対して問いかけていた「ゆっくり」という言葉が、いつしかからだの方に意識を向けるきっかけへと変化していく。ことばを介して、だんだん自分というものが薄まっていき、からだの方に光があたる。
「ゆっくり」ということばに親しむことで、自分のリズムの存在やからだのリズムの存在に気が付く。
それが重なっていないことは、本来のからだの要求にもかなっていないことなのではないかと、自然と感じられるようになる。
いままであまりにも重なりすぎていた自分自身との程よい距離感が生まれ始め、からだの方に意識を向ける機会が少しずつ増えてくる。ゆっくりということばを背景にそんな変化も感じられるようになってきたのでした。
(続く)