東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

時空と瞑想(4日目)

昨日の続き
瞑想は思考に取り組むことから始まる。思考を人間のからだに例えて言うと、根源的な二元性、感覚、衝動、概念はからだの骨格にあたる。感情は筋肉にあたり、意識化の無駄話やその他のとるに足らない思考活動は循環系であり、それが筋肉を養い支えている。したがって肉体を完璧に機能させるために必要なものは、筋肉組織と循環組織、そしてそれを支える骨格である。
瞑想という行為は一つの開いていこうとするプロセスに見立てることができる。思考の肉体を解剖してみると、まず皮膚に切れ目を入れ、次に循環系である思考活動の動脈を断ち切る。瞑想するということは、この動脈のなかの小さな切れ目だ。坐る瞑想は極度に退屈だとか、達成困難だとか言われたことがあるかも知れない。だがやってみればそんなに難しくはなく、逆にかなりやさしく思えるだろう。ただ坐ることだけなのだから。動脈、つまり心に意識下の無駄話は、呼吸に取り組むことで容易に断ち切れる。ただ坐って自分の呼吸の出入りをただ受け入れるだけ。特殊な呼吸法は何もいらない。ただ坐って呼吸に気を配ることを続けてゆく、ただの自然な呼吸。これは呼吸に精神を集中するのとはまったく違う。集中は何かに執着するとか何かにしがみつこうとする面があるが、集中よりむしろ、心を隅々までゆきわたらせるのである。目標思考の集中よりも、そこで何が起きつつあるのかを見てゆくことが必要になってくる。
心をゆきわたらせるというのは目標も到達点もない。そこでは愛と光、天国と地獄、あるいは天使も悪魔もいない。また、どんな種類の幻覚も約束されていない。まったく何も起こらない、まったくの退屈。ときには自分が馬鹿らしくさえなるかも知れない。瞑想の空間では、ただ坐って自分の呼吸を感じ、それとともに在るスペースなのである。そうするうちに動脈の切れ目は、実際には切れ目ではなかったことがわかってくる。実際に切れ目が入るのは、瞑想の退屈であって、本当の意味での退屈を感じ始めることになるからだ。だがこの退屈はとても重要である。何故ならこの退屈は「証明癖」と対極にあるからだ。うすっぺらなプライドであるアイデンティティーがあれば楽しいし、何か新しくて生き生きしていて素敵なものをもたらしてくれるし、あらゆる解決法にもなるだろう。このような自己存在証明の考えを除外すれば、そこには退屈が待っている。この退屈な空間は瞑想者においてとても重要だ。退屈は瞑想者の心の洗練度を向上させてくれる。瞑想者は退屈を味わい始め、それがクールな退屈になるまで心の洗練度を高めてゆく。そこには何かがあるが、時間は存在しない。そんな空間にあり、坐して、坐して、坐し続けることは、思考の動脈を断ち切り、退屈を並はずれた強さになるまでこの心理的孤独とともにある。こうした孤独こそが本当の自由というものだ。孤独とは「ひとり」という意味ではない。孤独とひとりはまったく違う。孤独は全体の一部であり、全体ととともにあるということ、すなわち全一的であるということだ。
操体の動診でもからだの感覚に気を配って、快があればそれに身を委ね、からだの動きをただ受け入れるだけ。瞑想と同じように目標も到達点もない、ある意味において動診もまた全一的だ。
明日に続く



東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。