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東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

言葉のマ

日下和夫(くさかかずお)

 今回のテーマは 「MA」。 まず初日は 「言葉のマ」 から入りたい。 

 

 人間はとても忘れやすい動物である。 そうでないととてもじゃないがまともに生きていられない。 そりゃそうだろう、生きていればいろんな辛い事や苦しいこともある。 それらをすべて覚えていたとしたら生き地獄そのものだ。 だからこそ、忘れること、すなわちリセットすることで未来を生きることができるのである。

 

 忘れること、それは 「沈黙」 という 「マ」 ・・・・・・。 しかし、沈黙するために言葉を忘れることは極めて難しい。 我々の言葉は頭にしがみついてしまった。 これは人間にとって最も大きな問題の一つである。 

 

 なぜなら、言葉があまりにも重要になってしまったので、その意味は意味を失ってしまった。 言葉の象徴があまりに重くなって、その内容は完全に失われてしまった。 我々は皮相に催眠術をかけられて中心は忘れさられている。 これは人類だけに起こった言葉文明が生んだ悲劇である。

 

 もし、言葉を忘れている沈黙の人がいたら・・・・・・ その人こそ 「マ」 を持った人物である。 そんな言葉を忘れている 「マの人」 には一体どこで会えるのだろうか? その人こそ本当に話したい相手だ。 言葉を忘れている人こそ、ともに語ることに値する人であろう。

 

 そのような人には、その内側に内奥の現実が、存在の中心がある。 その人は伝えるべきメッセージをもっている。 そしてその 「沈黙のマ」 は豊かさに富んでいる。 それに比べ、我々の社会で話していることはあまりにも無能に見える。 

 

 我々の社会は何ひとつ格別なことを言っているわけではない。 社会というのは決してメッセージなどはもっていない。 伝えるべきものなど何もない。 社会の言葉はとても虚ろだ。 中に何も入っていない、何も運んでいない、それらは単なる象徴でしかない。

 

 そして我々が話をするときには、ただ自分の中のガラクタを放り出しているだけだ。 それは自分にとってはいい発散、つまり、カタルシス的な浄化作用かも知れないが、相手にとってそれは危険にもなる。 それに、言葉でいっぱいになっている人には、どのように話ができるというのだろうか? いや、とても不可能だ!

 

 言葉は余地を残さない、言葉は開口部をもたらさない、言葉とは過剰なもの、深く浸透していけるものではない。 言葉でいっぱいになっている人と話すことなどとてもじゃないが不可能だ。 そういう人は聴くことができない、なぜなら聞くためには人は 「沈黙のマ」 が必要になるからだ。

 

 聴くために人は受け身であらねばならないが、しかし、言葉は絶対にそれを許さない。 言葉とは攻撃的なもの、決して受容的ではない。 我々は話すことはできるが聴くことはできない。 そして、もし聴くことができなかったら、その話は狂人の話になってしまう。