東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私との対話「希望」5月24日土曜日 午前5:10分 モスバーガーにて。


いよいよ最終回を迎えました。ブログにアクセスしていただいた皆さんに感謝します。一週間どうもありがとうございました。ブログとは自由日記の書き込みと聞かされていましたが、それはブログを打ち始めて後に知ったことで、内容的には、どうも大づれしてしまったようです。しかし、そのままぶっ飛んでいます。一週間の感想はというと、結構自分の世界のなかで十分たのしませていたヾきましたよ。それも総勢20人バトルのなかで、味あわせていただヾける醍醐味でもありました。
日曜日から森田さんが担当ですね。 よろしく・・・。


私との対話「希望」
「希望」という私の問いかけに、ゲーテ、シュタイナーが、そしてフロイトユングの先人達が答えてくれる。ゲーテは「人は希望を失おうとしない精神をもっている」と答えています。希望とは信念にまさる、ゆるぎのないもので、その信念は不快から生じてくるものではなくて、快という生命の本質にある意志そのものから生み出されてくるものだと、私は思う。
人は信念を失ったとき、老いて枯れ朽ちるものである。それは加齢を重ねて肉体がおとろえることではない。若さも信念を失ったとき、枯れ朽ちるのである。希望とは信念そのものである。
信念は希望とともに、若く、朽ちるものではない。
橋本敬三医師は、自然法則の中に真理があると言います。真理のなかに、生かされし救いの生命観が貫通しているという、それは無極無限の太極の意志であるというのだ。その救いの生命観をさとることによって、人は人として最高の至福を得る、という。それは人としての自由を手にする、ということである。この自由こそ、希望なのである。


しかし、日常性のなかで、人は自分が抱く思いというものが、いったいどこに繋がっているのかはっきりとしないまま、何処(いずこ)に、これから先繋がっていくのかわからないままなのです。この私の、残された時間も、これから何が私に出来るのか、どうこの生と向かいあおうとしているのか、死後どうなるのか、どこへ行くのか、みんなはっきりしないままです。
そして、問題が起きてしまうと、大きな直面にぶつかってしまいます。まづ、その問題というのは、病気とか、人生の苦悩とか、苦痛を余儀なくされ、痛みを伴うものという意味で、そうなったら、もう自分一人の胸にしまい込んでおけもせず、自分の手に負えるものでもなくなってしまう訳ですね。しかし、それは何か大きく自分を取り巻く力を感じはじめようとする転機の時が来たのだと思います。もし、不幸にも人生のあきらめと絶望とがやってきた時、人は、あぁ、なぜ自分ばかりがこんな目に遭うの、と思い、自分の不幸を嘆きます。つい希望を失ったと思い、否定的になってしまいます。しかし、有難いことに人は口では何だ、かんだと言ってみても、100%自分を否定しきれる存在ではないってことなんです。
それは、もう人が生きてやがて死を迎えるという、はっきりとした現実と同じ位にはっきりしていることだと思います。というより、人には否定しきれない自分を感じるからこそ、苦しい思いをするのだということが、本当はわかっている筈ですしね。問題が起きてみてはじめて、この思いに直面して、自分の本音に気づく訳でしょうけど、ところで、自分の本音というものは、きっと自分の意志というものから、大きくはみ出しているものなのかもしれません。もし、強引に否定を強めていくと、自殺か殺人しかありませんし、それが出来なければ、観念的虚無になる、と思います。虚無とは恐ろしさの体験、そのものと思います。ここに否定する事の問題がある訳だと思います。しかし人はやはり大きな力(自分以上の)を感じてる訳です。人がもし、目覚め、自分以上の大きな力、自分の意識を越えた、さらなる力を得ていることにふと気づくのはこの時からじゃないかと思う。


淋しいと見える否定も、実は激しい自分への肯定を含んでいるのだと思います。本音は希望を見失いたくない!ということなんじゃないかと思うのです。その希望の内容を具体的に規定することは出来ませんけど。
「もう希望を見失いたくない」というのは私自身への本音です。もし実現の希望が直接的にある訳でなくても、希望という快のランプを見失うことだけはイヤなのです。
希望というのは、単なる言葉上の概念ではなくて、人と希望との関わりは、つまり、人は希望を実現したいんだと思っていることなんです。人は、また希望に対して実現するというかかわりを望んでいるんですね。


それは、ゲーテの問いかけにシュタイナーが「人間にはその希望を失おうとしない精神を実現しようとする心の働きがあるのだ」と、答えている。つまり、その心の働きを霊的意識として捉えているのである。


フロイトは希望について、「人間はセックスをとおして無に帰りたいという根源的な希望を満たしている」というのである。


しかし私は、このフロイトの考えに反論する。セックスは人間の意識的行動意欲の中で、快感をもたらす最高の行為の一つであることは、間違いのない事実である。しかし、フロイトが云うように、セックスが無に帰りたいという人間の根源的希望を満たすのであろうか。
私が思うに「人間は無意識に帰りたい」という希望なのでないかと思う。無意識の空間、無意識の世界である。その無意識とは表層意識を越えた潜在意識空間であり、又、それを越えた民俗意識、さらにその意識は宇宙意識、イノチの根源にヒビキをもたらすもの、波動するものがセックスなのだと考える。


そのフロイトに、反論といおうか、逆の問いかけをするのがユングであった。ユングはこうだ。・・根源的な快の欲求は無に帰りたいと思うことではなく、「まだ実現されていないものへの実現を望む心」なのだと・・・・・。
つまりもっと高く崇高な心であって、それが希望を失わない精神と云うのだそうである。私はユングの考えに賛成だ。快の欲求は希望なのだ。
からだにとっても快は大調和のバランスである。それは大生命の意志であって、大生命の生みの親の、親の創造のなかにあるものであって、その創造への設計にミスはないのである。それが救われしこの命の生命観なのである。


このことは、希望を見失うかどうかに、つながっていることなのです。日常生活のなかで、必ずしも満たされていなくても、また、いつの間にか「快をつむぐ」ことができるのは、希望をもっているからなのだと思います。又、快をつむぐから希望が持てるのかもしれません。
それは、私にもよくわかりません。この程度のことしか・・・・。いったいどうなっているのかこれからも問いかけていきたいと思います。希望は永遠のテーマですから・・・・。希望はそのままでは、ただのアクセサリー、求めるという行為のなかで枯れ朽ちることなく私の生と共に、その信念の中で育っていくものですから・・。


希望について、沢山の人がその考えを残しています。ゲーテもシュタイナーも、フロイトユングもそうでしたね。


私はね、ユングでもゲーテでもいいですけど、私自身の三浦流なのです。それは自分への問いかけなのですから。それは何人といったって希望を得て再々に励ましを得る、自分とめぐりあえたことにまず、感謝しているのです。
それは誰にでも出来る、ということじゃなくて、物事、事象の本質をとらえようとする素直さやそのひたむきな情熱に私自身目を見はるのですけど、その、ゆるぎのない精神力の強さで、大きな生命力を人に感じさせています。私のように本質の目を持って人を見ると、その人が透けてみえてしまうのかどうか、とにかく私を見ていると、ガラスの中のガラス、そのまた奥のものをちゃんと見ているような視点を感じます。
きっと私は自分の根源が、その奥にあることをはっきり気づいているからなのでしょうか。それは、私にとって快の領域、いのちの意志のエリアです。その一時、その一瞬にして、未来、そして自分の意志をはるかに越える世界に踏み込んでいるような感じを実感できることもあるのです。


でも、それは別世界のことというよりも、長い間、ずっと訪ね歩こうとしていた、つまり命の記憶に少しづつたどり着いたような感じのする世界です。まったく違和感のない親しみわく世界観です。そうして、この世界観から私が描けるものをなんとか表現してみたいと思っていました。それが描けることも、わかってきましたし、今私はそのことを実践しているのです。
まあ、そうだと思いますが、それにしても私自身の厳しさにも私は支えられてもいました。
その厳しさは優しさでもありましたが、それは私独特のものです。私の美意識であると共に、生命力そのものだと思います。
表現方法はいろいろあるでしょうが、私に言えそうなことは、人は同じ道を二度と歩まない、というようなことを感じるのです。私を見ていると・・・・。
でも、それは日常的には違います。外から見ていると、同じ生活リズムのくり返しで、ほとんど同じ道をたどっているように思います。でも、何遍も同じ道を歩いてもいつも初めて来たような感じがします。としたら、まるで赤ン坊のように一日一日が新生です。生き生きと、初めて通る道、そして自分は二度とこの道を戻る事はないであろうという予感・・・。人が本質と向き合い、その本質の道を歩むという人生、実はこれを選ぶことは実際には厳しいです。が、でもそれは快の領域であって、快の深層なのですね。


あんまり真剣に集中していると、チト疲れました。
貴方はちゃんと、私と向かいあっていますか
ものごとへの根源に心を向けていますか
ステキな自分と向かいあえるように、
今日も 明日の自分を描き、
自分に帰っていく一日でありますように。
そして、自分という自由を手にする一日であり、
この一瞬は明日の自分を夢みるような
時であるように・・・・。



三浦寛