東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

同じ時代を生きた二人。

おはようございます。

 昨日は掃除について書きましたが、掃除といえば、経営の神様とまで崇められた松下幸之助氏も、とにかく掃除を重要視していたようです。
 松下幸之助氏の掃除に関する発言や逸話は多々ありますが、PHP研究所の松下理念研究部長の渡邊祐介氏によれば、松下幸之助氏は掃除というものを仕事観や人生観のみならず、自然・宇宙観と関連づけて考え、人間としての成長に役立つものと確信をしていたとのこと。


『PHP Business Review松下幸之助塾』2012年3・4月号の渡邊祐介氏の記事から引用すると

『これほど真剣に、かつ熱心に掃除を推奨したのは、松下の自然・宇宙観によるところも大きいと思われる。松下は、万物を創造し、存在せしめるものとして宇宙の根源を想定し、その力のもとにすべてが生成発展していくと考えていた。宇宙根源の力は、自然の理法としてわれわれ人間の体内にも脈々と働き、一木一草のなかまで生き生きとみちあふれている。しかがって、季節の移ろいも自然の理法によるところであり、何ごとも自然の理にかなった方法によれば、必ずうまくいくという哲学である。
松下は、松下幸之助商学院において掃除を導入するにあたって、「1年間同じ時間、同じ場所で掃除をしても夏には夕立が降り、冬には枯葉が落ちるといった自然現象の違いを掃除を通じて感じるもの」と語っていた。掃除を実践するなかでそれぞれが作業のコツをつかむ工夫をこらす努力をしていれば、おのずと自然の理法に即した物事の道理を模索し、理解することに繋がり、より人間力を磨く修行となっていくのではないか。』
と書かれている。

 この文章を読んでいると、ピンと来るものがある。言葉の表現こそ違うが、その自然・宇宙観、哲学は、操体の創始者、橋本敬三先生の想念、思想、哲学とよく似ていると感じる。
 松下幸之助氏は明治27年に生まれ、平成元年に御他界。橋本敬三先生は明治30年に生まれ、平成5年に御他界。戦争を含む激動の時代を、ほぼ同時期に、この日本で生きておられたことになる。
 お二人の境遇や歩んだ道のりは勿論違う。生涯をかけて成してきた事、かたちにしてきた事にも当然違いがあるが、その根底にある思想と、それをもとにした心の持ち方には共通したものがあるのではないか、と思えてくる。

 その思想の根底にあるのは、やはり「オレがオレ我」の思想ではないということ。常に自分を生かしてくれている、自分以外の、目には見えないが絶対的に自在してあるものがあり、それによって生かされて生きているという捉え方。絶対的に自在してあるものとは、宇宙の根源という言葉の表現であったり、太極であったり、サムシンググレートであったり、神仏ということになってくる。

 しかし、神仏といっても「困った時の神頼み」という言葉に表されるような、そんな自分本位の甘えた神仏観ではない。自分も他者もすべてのものは、この世に生まれる前から救いの成立したイノチであり、この世に出でてからも、皆平等に愛とその法則を享受しているという、真理に直結する非常に素直な考え方なのだと思う。そこから、苦労を苦労とは思わず物事を前向きに捉えられる強さと、勤勉さ、他者へのやさしさが、かたちづくられたのではないだろうか。

 その例として一つ挙げれば、松下氏は病弱な面があったという。しかし、それをプラスに変えて商売を成功させてきた経緯がある。『人生談義』という著書の中で、「病と健康」と題して書いているように「自分が病がちだから先頭に立って商売をするにもそれができない。どうしても自分の代理に頼んで仕事をしてもらうことになる。そうなれば、十人にも百人の人にも頼めるし、非常に多くの仕事ができるのですな」ということもある。
 しかし、これは松下氏だから、まわりの人達が協力してくれたとも思える。そのような人格を持ちえた松下氏を、かたちづくったのは、先に挙げた真理に直結する心の持ち方なのだと思う。

 同じ「病と健康」という文章のなかでも、最期にこのようなことが書かれている。
「万物は日々生成発展をしているのです。それがほんとうの姿だと思うのですね。ですから、病も、老いも死さえも生成発展の姿である。そういう見方をすると、いやだ、いやだと思っていたものがいやでなくなる。敵のように思っていたものが、やがては味方になるということになります。
何ごともこだわってはいけませんね。素直にありのまま見るということですわ。病とはそのような気持ちでつきあっていきたいと思いますね。」

 一方の橋本敬三先生も、病と健康ということについて「病気なんかねぇ」と言い放っていたと聞く。そして、『生体の歪みを正す』の著書の中で、このような事を書いている。
「人が神性を自己に発見し、よくよくこれを思い、全く神人合一した状態においては、病も死も問題の外に置かれる。そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。神に病や死がないと同様に、その像である人にも、その通りであるべきはずである。神と人とが同じ像であるとの信念から離れるほど完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。これを迷いというのであろう。迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、健康を害する因子を積み蓄えることになる。像も歪んで来たざるを得ないわけである。」