東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症18

昨日のつづき

 現実にある恐れとは、生命が脅かされているという感情であり、それは緊張も、感覚や精神の鈍化も伴わずに起こる。そういった本物の恐れを抱いた有機生命は、恐れを直感する準備が完全にできているということだ。原始的な恐れは、それが破滅的な恐怖であるがゆえに、鈍化をもたらすことになる。原始的な恐れは、両親らが自分を愛していないという原始的な苦痛が消え去らないがためにいつまでも残っている。すなわち古い恐怖が現在にまでつながっており、その恐れを不安に変えているのである。不安というのは結合されていない古い恐れである。なぜなら、結合というのは破滅的な苦痛を意味するからだ。たとえば山のなかで自分に向かって突進してくるイノシシに対する反応が恐れであり、イノシシが自分の方に向かってくるかも知れないという感情が不安である。

 幼児や小さな子どもは、状況をじかに感じとり、自分の感情にそくして行動する。しかし、時が経つにつれ、恐れを表すことすら神経症的な両親に批判されるかもしれない。たとえばこう言われる、「さあ、泣くのはよしなさい! 何も恐ろしいことなどないじゃないか」、それで恐れは否定され、原始的なストックに蓄積され、緊張の度合いが高まってゆくことになる。この否定された恐れは、自分の感情そのままに、しごく当然な反応をすることは許されないということを意味する。そして自分の感情をはっきりととらえ、緊張を解き放つために、恐れの対象物を考案しなければならなくなる。

 自分が怖気づいていることを神経症の人間に理解させるには、原始的な恐れを行為で発散させるよりも、感じとるよう強いる方がよっぽど役に立つ。神経症の人間をその恐れのなかに、さらにはその彼方へ連れ込むときに、我々は原始的な苦痛のなかへその人間を移動させているのである。

 幼児がお腹を空かして泣いてもそのまわりにお乳を与える人が一人もいないと、その状況で泣くことは不適切な反応となり、泣いたところでつらい、不愉快な状況を変えるのに何の役にもたたないので、やがてまったく泣かないようになる。生まれてから間もないうちに、絶えず欲求が充たされない苦痛をなめさせられた人は、幼児時代に戻って思い切り泣き叫ぶまで、反応が閉ざされる場合が多いことを、リバーシングなどの精神療法で目にすることが出来る。

 原始的な苦痛の影響は、それが感知という全面的な経験がされるまで続くと考えられる。要するに原始的な苦痛を有機生命から追い出す条件を調えることができないのである。したがって人間は、苦痛の表面的な表出である喫煙や飲酒、それに薬物の常用にふけったり、その報いを受けたりするが、苦痛そのものを変えようとはしないのである。このように苦痛は、完全に感知されるまで、神経症的な何らかのはけ口を求め続ける。

 神経症にかかっているものは、緊張を和らげるために、非現実的で象徴的な行動をとる。したがって小さな子どもの時代に持ってしまった自分は愛されていないという気持ちにまったく気づかないまま、愛されていると感じとるために、セックス行為に駆り立てられがちになる。性にとりつかれたフロイト理論の根拠はまさにここにある。

明日につづく