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東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

生者と死者・・・2。

おはようございます。

 

ちょっと昔の記憶が、ふと、蘇えって来た。

ちょっとといっても、私がランドセルを背負った小学生だった頃の事だから、随分と昔のことになる。

内気で気の弱いMちゃんという同級生がいた。学校の帰り道が同じ方向だったので、よく一緒に帰った。

あまり口数が多くなく、大抵は私がベラベラしゃべっているという感じだったが、その日は何だか晴れ晴れとした表情で、こう言った。

「俺、もうお化け怖くなくなったんだ」

「へぇ~、どうしたん、なんで?」と聞くと

「それはさぁ、友達になっちゃえばいいんだよ」と、その秘訣を教えてくれた。

実際にお化けを見たわけではなく、まだ見ぬ見えないものを恐れ、夜中にトイレにも行けなかったMちゃん。しかし、考え方、想いを変えただけで、まるでへいちゃらになってしまった。行動まで変わる。その変化の循環は性格にも表われ、何かどっしりしたようにも感じた。これも一つの観の転換なのだと思う。

今思い出すと、何だか合気道塩田剛三先生が「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれ「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えた言葉とも重なり、妙に納得でき、感心させられてしまう。

 

生者と死者。昔の昔、古代の中国では、死によって形を失ったものを鬼としていたという。鬼はキであり帰でもある。五行大義には「鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う」と記されており、死者を帰人としていたのだという。

「帰」とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになるという。

物事、モノコトの始まり、を想えば納得のいく話でもある。モノコトナリの元の元には太極が在り、その太極が理念をもって陰と陽を設定したことから、すべてが始まったという事。

 

鬼の語源は、オン(陰)やオヌ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものを意味したという。

鬼というと、どうしても角が生えた化け物のようなものを想像してしまうが、元々はそうではなかったということであり、生者の社会的秩序を保とうとするその想念が、化け物のようにしてしまったとも考えられる。

いつの世でも子供は言うことをきかない。言うことをきかせて、社会の一員として立派になってほしいと思えば、畏怖する対象をもたせる事も必要ということなのだ。

しかし、そういう生者の都合ばかりを先行させ、死者を遠ざけてばかりいると、生者は死の恐怖から逃れられなくなるだろう。その恐怖は、カタチが壊れる恐怖やカタチあるものへの執着として表われ、常に不安を抱えながら生きるという事につながるのではないだろうか。それでは生かされて生きる幸福の本質が隠されてしまう。

ちなみに操体では、肉体の死を死としてとらえずに、帰一の法則としてとらえている。帰一とは、命あるものは無条件の愛から生まれ、そして、その神性に帰っていくことを謂う。

 

Mちゃんは、お化けと「友達になっちゃえばいいんだよ」と教えてくれた。

それまで本人は、よっぽどお化けが怖かったのだと思う。怖くて怖くてそれでも怖くて、そんな時、想いの質の転換が起こった。陽から陰ではなく、陰から陽へと転換されたのだ。

その転換を可能としたのが、一人一人の生命に貫通する太極の意志だったのではないだろうか。

 

 

2015年冬季東京操体フォーラム 12月5日(土)6日(日) 二日間開催します

詳細は東京操体フォーラムHPをご覧下さい