おはようございます。
五行大儀の「鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う」
この言葉の説明には「帰とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになる」と記されている。
しかし、この説明にあるような「生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間」という言葉をきいても、なかなかピンとこないのが実情だと思う。
みんな肉体を有して、この世に生存しているのだから、目に見えるそれこそが、実在だと思っているから。あるいは、目に見える、あるいは顕微鏡や何かで観察できるものだけを実在としているからである。
そういう思考なり嗜好なり思想なり論理だけに拘っていれば、なかなか古(いにしえ)のこういった素晴らしい教えというのも、なかなか伝わりづらいのではないだろうか。
目に見えるものは、目に見えないものに触れている。そうやってイノチを宿している。
それは万物に当てはまる。人間の肉体だって、細かく見ていけば、器官→細胞→分子、原子と細分化できる。そして、ここまでは客観的な観察が可能だ。
しかし、原子の前の段階の素粒子というのは、観察するその観察者の意識によってカタチを変えてしまうという、そういったエネルギー構成主体の世界なのだ。
だからといって、素粒子やその前の段階を否定することはできないだろう。
素粒子から前の段階は、陰と陽が設定される事によって起こる波動であり、その陰と陽を設定したのは太極という事なのだ。太極が愛と調和の理念をもって陰と陽を設定した事により万物は生じた。そして、その意志は万物に貫通している。
目に見えないものから、無機の世界、有機の世界へと、目に見えない太極の意志の元に、陰陽が展開され、そして人間の像を現しているのだ。
目に見えるものは、目に見えないものから構成され、そして常に接触している。
その目に見えないものこそ重要なのだ
生者という現象の元の元を紐解いていくことで「生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間」という言葉の意味も明らかになってくるのではないだろうか。
また、太極は陰陽未分の一であり、無極無限でもある。「そのものの本来の居所」というのも、この無極無限の太極、すなわち無限界なのではないだろうか。
「帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間」については、以下の文章を参考にしてみる。
「釈迦も基督も、この生命は天地創造よりも前から生命そのものであると宣言されておる。此の世(現象界)において五官に映る肉体的人間を生命と思い込み、自分を生命源なる神仏から隔絶して考えているうちは、放蕩息子のようなもので、無限の富の後継者であることを悟らないから、その恩恵に浴し得ないでいるのだという譬話を釈迦も基督も説かれている。現象の人間は、理念なる人間(創造神が己の像と同じものとして生んだ人間)が、その栄光を、現象界に投写上映する最高の場であると説く師もある(谷口雅春氏)」
この文章は、操体の創始者である橋本敬三先生の著書からのものである。
私なんぞはまだまだだが、個による自我を取り払い、本来的な観点に立つと死も問題外となってくるようだ。生命源なる神仏こそが本来であり、生者からみた死とは本来は生命源なる祖神の里に帰ることなのだと感じる。
それを「鬼」と捉えてしまうのは、人間の死に対する恐怖心や執着心、カタチがなくなる不安感からなる心なのだと思う。
「鬼は帰なり」という古人の言葉には、鬼は不安から生じる妄想であり、それをふり払って自己本質の有り難さを想え、という意味がもあるのではないだろうか。
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