東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

時空と瞑想(2日目)

昨日の続き
瞑想とは、我々の焦燥感や落ち着きのなさ、それに絶え間のないせわしなさに取り組むということである。この瞑想によって「空間」という空いたスペースが生まれる。この空間の中では、焦燥感や落ち着きのなさが存分に発揮できるかも知れないし、そわそわできるスペースもあって、落ち着かない気持ちのままにリラックスできるかも知れない。もしその落ち着きのなさの邪魔をしなければ、それは「空間」の一部になることもできる。
瞑想というのは、心の催眠状態を生み出そうとすることや、落ち着いた感覚をつくろうとするようなことでは決してない。心の落ち着きを得ようと努力するのは、実のところ貧しい心理状態を反映しているからだ。心の落ち着きを求めようとすれば、落ち着きのなさに対して防衛的になってしまい、そこには絶えず妄想と限定性の感じがつきまとうことになる。自分を圧倒しコントロール感覚を失わせてしまうような熱情や攻撃性の突然の発作から身を守る必要を感じてしまうのである。この防衛プロセスは、来るものすべてを受け入れることができないために、精神の視野をきわめて狭く限定することになる。
瞑想は心の中に生起するすべてを使いこなすという意味において、豊かな精神性を反映するものでなければならない。落ち着きのなさにも、それが空間内で自由に動きまわることができるような充分な空間が与えられるならば、そのエネルギーは自分に対して根本的な信頼感を持つようになり、落ち着きを取り戻すことができる。そのためには問題多い状況やいらだたしい状況に単純に交わり関わることが必要だ。そこには無知があり、落ち着きのなさもあり、熱情があり、攻撃性もある。それらをほめてみるとか、非難することなく、ただ発作として見ることが必要なのである。それらはある条件下の状況であるが、何の条件づけもなしに心をゆきわたらせることによって正確に精密に見ることができる。これが「自覚」というものだ。心の中身を捨てたり、とっておいたりする必要はまったくない。それ自身の環境や空間があるのだから、心をゆきわたらせることの精密さはあるがままに放っておくことができる。ただ心をゆきわたらせるということができれば、攻撃性や熱情等を認めうる土台になる空間が生じてくる。ゆえに自覚とは執着しないという意志であり、意識はしているが焦点はあわせていない「心」を意味する。
瞑想にはどんな方法も原因とはならない。だからいろんな方法が可能なのである。どんな方法もただの方便にすぎない。瞑想は因果的ではないのでどんな方法も可能になる。すべての方便というものは嘘であり、単なる方便なのだ。それはただある空間を生み出しているだけなのである。因果的なものではない。そのある空間とは居場所のことであり、それを超える手段が瞑想なのである。
操体法においても同じことが言える。動診におよぶ空間内でも自由にからだを操れる空間が与えられなければならない。そのためには、やはり心をゆきわたらせることが必要になってくる。
明日に続く



東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。