東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「知識」の編集工学(五日目)

昨日のつづき

我々の大部分の人々はいかなる知識も本当は欲しがりはしないというのが実情である。大部分の人々は自分たちの分け前を拒否し、人生のさまざまな目的のために割り当てられた取り分さえ取ろうとはしないし、持っていた僅かな「常識」という知識さえ失って、集団で大規模な破壊に自らを投じる完全な殺戮者と化してしまう。言いかえれば、自己保存の本能さえ失ってしまうのだ。これは戦争とか革命といった類の集団狂気の際に特に明らかになる。

そのため、巨大な量の知識は要求されないまま残り、その価値を認識した少数の人々の間で分けることができるというわけだ。だから決してここには何ら不正なものはないのである。なぜなら知識を受け取る者は他人の物を何一つ盗るわけでも奪うわけでもないからだ。その価値を認識した少数の人々はただ、他人が無価値だとして拒否したもの、あるいはもし少数の人々がそれを取らなければ、どうせ失われてしまったに違いないものを取るだけなのである。ある者が知識を収集できるのは、別の者がそれを拒否するからにほかならない。

人類の歴史には、大衆がとりかえしのつかないほど理性を失い、文明が何世紀、何十世紀という時間をかけて築き上げてきたものすべてを破壊しはじめる時期があり、これらの時期は大体において文化や文明の崩壊の端緒と符合している。このような集団狂気の時期は、しばしば地質学上の大異変とか、気候上の変化、あるいは惑星と関連のある同種の現象に符合しており、非常に多量の知識という物質が放出される。
すると、今度は知識という物質を集める仕事が必要になる、そうしないと失われてしまうからだ。そういうわけでこの収集の仕事はしばしば文化や文明の破壊、凋落の始まりと符合している、この点ははっきりしている。

大衆は知識を求めることも探すこともせず、また大衆の指導者は、自分たちの利害のために、新しいもの、未来のものに対する民衆の恐怖心と嫌悪感をあおりたてている。この恐怖ゆえに人類は現在の奴隷状態に陥っている。そしてこの奴隷状態の恐ろしさの全貌は想像することさえ困難だ。

我々は何を失いつつあるかを理解していないのである。しかし、この奴隷状態を理解するためには、人々がどのように生きているか、人々の存在の目的、欲望、情熱、野心の対象は何か、何を考え、何を話しているか、また何に仕え何を崇めているかを見るだけで十分である。

我々の時代の教養のある人々が何に金を使っているか、戦争を別にして、何が最高の価値を与えられているか、どんなところに大衆が集まってくるかの問題をちょっと考えてみると、人類が今のような関心をもったままでは、それとは何か違うものを得ようなどと期待することは到底不可能だということがはっきりする。しかし、残念なことに、これはそうなるしかはないのである。

たとえば、人類全体に、年500gの知識が仮に配給されるとする。もしこの知識がすべての者に分配されるとしたら、各人はほんの僅かしか受け取れないので、各個人はその愚かさから抜け出ることはできない。しかし、ほんの僅かな人々しかこの知識を欲しがらないために、これを得たものは、そう、ひとり0.05gぐらいは手に入れ、さらに賢明になる可能性を獲得できるのである。

いくら望んでも人類みんなが賢明になれるわけではない。それに万一誰もが賢明になったとしても事態は変わらないようになっている。なぜなら覆すことのできない、賢明な人間と愚かな人間の普遍的な平衡がこの宇宙にはあるからだ。

明日につづく