「三L」という言葉をどこかで聞いたことがあるだろうか? ビッグサイズという意味ではない。Life(生)、Love(愛)、Light(光)の三つのLのことである。Lifeの生は我々にすでに与えられており、まさに今、生きている。そしてLightの光が臨在する。しかし、生と光の間に我々は架け橋をかけなければならない。この架け橋こそLove愛である。
三Lという前置きの後は、「病気」と「哲学」と「愛」の関係性について話してみたい。
まず、病気とは何だろう?
人は実存との結びつきを失ったとき、病を感じることになる。頭が断絶しているとき、そのとき、頭痛がある。胃袋が断絶しているとき、そのとき、胃痛がある。どこかで、我々は自律的になっている。すると、我々はもう実存の相互依存した大海原の中にはいない。そこで存在するのが病気である。
病気は一定の自律性を持っており、それ自体が独立している。自分の肉体の内側で癌巣が成長しているとき、その成長は自らが一つの宇宙になり、それは実存に結びついていない。病人とは、いろいろなところで断絶している人のことである。ある病気が慢性化するとき、それはその根が完全に破壊されたという意味だ。それを地中に移植する可能性さえ、もう存在しない。そうなると、我々はただ部分だけで生きながらえなければならない。我々の一部は死んだままになってしまった。
誰かが麻痺した。それにはどういう意味があるのか?
その肉体は宇宙エネルギーとの接触を失った。それは今、ほとんど死んでいるも同然である。そして生命エネルギーはもうその中に流れていない。もしこれが病気というものなら、それなら、この世にあり得る病気の中で、確かにいえることは哲学こそが最大のものであろう。
なぜなら、哲学は我々を徹底して遮断してしまうからだ。しかもそればかりか、自分が病気だということに絶対気づかないような論理で、我々を断絶させるのが哲学だ。哲学は、自分が取り逃がしていることに決して気づかないような正当化や理由づけで我々を断絶させてしまう。このように哲学とは自己正当化の病である。哲学はそのように自分自身を徹底的に擁護し続けることだろう。
哲学の意味は、人間が完全に頭脳志向になったということである。我々は愛の眼を通してではなく論理の眼を通して実存を見させられることになる。我々が哲学によって論理の眼を通して見るとき、いくつかのものごとを見ることができる。しかし、いくつかではリアリティーのヴィジョンを得ることはなく、それらは頭脳によるただの抽象にすぎないということである。
我々が愛の眼を通して見るとき、そのときには、リアリティーをあるがままに見ることができる。それは愛が宇宙と一緒になって降りかかる、合一性の中に降りかかるということだ。