操体だけのことではないが、ひとつの道を歩んでゆく師弟関係において、弟子は師が言うことについてはひと言ももらさず従うべきなのだろうか? それとも、自分自身の裁量で動くべきときもあるのだろうか?
これについてひとこと言わせていただくと、絶対的に従うか、まったく従わないかのどちらかにしなければならないということだ。 これは決して妥協するべきことではない。 なぜなら、中途半端というのは無意味であるだけでなく、有害でもあるからだ。
心半ばで師弟関係を続けるというのは何であれ弟子を分割してしまうことになる。 それは確実に害になるだろう。 そうならないために弟子は分割していない統一体としてとどまらなければならない。
したがって、弟子は全面的な受動態になるか・・・・・・ その場合には、弟子の側では何も考える必要はない。 ただただ深い信頼に基づいて盲目的に師に従うことである。 この盲目的という言葉は非常に強調される。 それはあたかも自分に眼が無いかのように。 それは眼のある誰かに引っ張ってもらうかのように。
そうなったら弟子は分裂していない一つの統一体としてとどまることができる。 ばらばらになることなく、統合して弟子は成長することができるのである。 あるいはまた、もし弟子がこれはとてもできないと感じたら、こんなことは不可能だと感じたら、それならまったく従わないほうがいい。 その場合には全面的に自分自身に従えばいい。 それでもまた、まとまっていることができる。
ばらばらにならずにまとまっていることこそが目的である。 だからどちらでもいい。 同じことがその究極的な結果となる。 もし弟子に師なしで独りだけで在ることができたなら、もしそれがどこへ導こうと、自分自身の意識に従っていくことができたら、それなら同じことである、結果は同じ。 だから、これはまったく自分次第なのである。
しかし、頭というのはいつもこう言う。 「両方やれ!」 と・・・・・・。 頭は言う、「師に従うがいい・・・・・・ が、よく考えることだ。 自分が正しいと考えることだけ従うことだ!」 と。 そうなったら従うということはどうなる? 全面的な受け身はどこにある?
そうなったら師弟関係の信頼はどこへ行ったのだろう? それなら、自分自身の意識に従った方がずっといいに決まっている。 だから欺いてはならない、自分に従うなら少なくともそこに欺瞞はない。 さもなければ、弟子は自分自身に従っていながら、それでいて師に従っているような気になってしまう。
もし弟子が決定因子であるのなら、もし弟子が選ばなければならないのなら、もし弟子が、捨てたり受け容れたりしなければならないのなら、その時には弟子は自分に従っていることになる。
しかし弟子は、自分が師に従っているという印象を自分のまわりにつくりだし、自分自身を欺くこともできる。 それだったら成果は何も無い。 それなら弟子は成長することがない。 なぜなら欺瞞を通じては成長ということはありえないからだ。
それに弟子はますます混乱することだろう。 というのも、もし弟子が、何を為すべきで何をすべきではないということを決めるのだとしたら、もし弟子が自分の師の導きの中から選択しなければならないとしたら、弟子は混沌を引き起こすことになる。
師が弟子を導くときにはいつでもその導きは有機的に統一されている。 指示のひとつひとつが互いに関わり合っていて、密度の高い一つの全体となっている。 そして
もうひとつ、師弟関係にはなく、全面的に自分自身の意識に従うことができたなら、それでも成長は可能である。
さあ、どちらか選ばなければならない。 だが両方選ぶのは駄目だ! 道を選択する上手い下手は、まったくもって自分次第なのである。
2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。
テーマは「上手い下手について」