東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

曲直瀬道三

しつこいようですが、先日、春季東京操体フォーラム分科会が終了しました。私たち東京操体フォーラムは年間スケジュールの元に、予定を立てフォーラムを開催しています。
因みに今年は8月に東京操体フォーラムIn 京都9月は昨年に引き続き、東京操体フォーラムIn Madridそして11月秋季東京操体フォーラムと大きなイベントが控えております。
そんな中、昨年から初の関西開催ということで、京都でフォーラムが開催されるようになりました、今後は京都に拘らず、北村先生のお膝元でもある奈良とか、素敵な器があれば拘り無く飛んで行きたいと考えています。
今年、8月に開催予定の京都の大徳寺塔頭 玉林院さんは昨年もお世話になっており、本堂自体が重文襖は狩野探幽狩野派一門による水墨画が描かれています。そんな重要文化財に囲まれた緊張感漂う中でのフォーラム開催となります。
この玉林院さん、歴史は古く、慶長8年(1603年)に創建され当時は『正琳庵』と名乗っていたようです。その後に『琳(りん)』の字の王と林の部分を分けて、現在の『玉林院』と成ったそうです。
名前の謂われは御所入りの医師『曲直瀬正琳(まなせしょうりん)』が月岑宗印(げっしん そういん)を開祖として創建し、自身の名前“正琳”をとって名付けたのが謂われだそうです。そして、今回のブログのタイトルになっているのは、「日本医学中興の祖」にして、天下人の主治医として知られる『曲直瀬道三』その人です。
この"曲直瀬"姓は道三が後陽成天皇から曲直瀬家三代にわたる医学の功を賞して、『今大路(いまおおじ)』の姓をおくられ、道三はそれを切っ掛けに、二番目の孫娘と結婚した門人の正純と、養子玄朔の三女と結婚した門人の正琳とに与えたそうです。
この『曲直瀬道三』については、書くことが山ほどありそうなので、今日と明日のブログ二日間を使って取り上げたいと思います。
先ず初日は、余りにも凄すぎる『曲直瀬道三』とはどんな人だったかを、矢数道明(やかずどうめい)氏著の『近世漢方医学史-曲直瀬道三とその学統』(名著出版・1982年)を資料として語ってみたいと思います。
曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507〜1594年)は室町期から安土桃山時代に活躍した医師です。道三が生まれた時代は丁度、応仁の乱から30年後位であり、室町時代、11代将軍、足利義澄(よしずみ)の時代でした。室町後期は既に将軍の賢威も地に落ち、各地の守護たちが大名となり、勢力拡大、各地で群雄割拠の下克上が横行した混乱の時代でもありました。
そんな時期に道三は永正4年9月18日、京都の下京、柳原で生まれました。道三は後の名で、当時は正盛(まさもり)、又は正慶(まさよし)と名乗りました。道三は生まれた翌日に父親が死去、間もなく母も亡くなったようで、伯母と姉に養育されたようです。
子供の頃から頭脳明晰、一を聞いて十を知るところがあり、いつも身近に四書(大学・中庸・論語孟子)を置いていたようです。
そして、道三、八歳の時に江州(現滋賀県)守山の天光寺に入りました。そこで修行を積み1519年8月15日、十三歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ)に移りました。
相国寺京都五山の上位にあり、格式も高く、僧としては出世コースと言えるかもしれません。
と、ここまで見ると、僧侶になるための修行であり、医学とは無関係のように思われますが、当時、中国から入ってくる最新医学の殆どは、仏教などの経典などと一緒に伝わることが多く、必然的に生と死を扱う僧侶という立場上、『僧医(僧侶で医学の心得のある者)』と言われる立場の人々が医療を施すようになりました。

しかし、時代は戦国を迎え、戦闘が日常化すると刀による斬傷や槍弓による刺創が激増しました。傷の応急手当や止血の技術も重視され、膏薬の開発も進み、これらに対応した新しいタイプの医者である『金創医(きんそうい)』が外科のはしりとして誕生しました。戦国の救急救命士的役割であり、とかく宗教と繋げる「僧医」と違った、より実践的医学と言えます。
この『医僧』『金創医』に関しては、私の最近のお気に入り、NHKで絶賛放映中、要潤出演の『タイムスクープハンター』Season1第三話『戦国救急救命士として取り上げられているので、興味がある方はDVDでご覧下さい・・・某国営放送の歴史番組はかくあるべきだと!いう面白い番組ですので、是非、毎週木曜日22:00〜ですのでお勧めです。のだめの脚本家も見て欲しいと(しつこ過ぎますか)・・・

その中で道三が学び、実践した医学はいわゆる『李朱医学』でした。
陰陽五行説に裏打ちされた医学で、宇宙は陰と陽の二つの「気」によって成立しているという発想です。李朱医学では人体を小宇宙と考え、陰陽の相互対立が均衡を失うと病気が発生するという理論であり、人体における陰陽の統一や和合をはかるという、現在の漢方医療の基本的考えにもなりました。

そんな修行を積んだ道三が京都に戻ってきたのは、1545年道三39歳の時でした。当時の京都は安易な医術が横行していました。病人の症状を診て「和剤局方」と機械的に照らし合わせ、合致した部分で薬を処方するといった安易な医療で、道三が行っていた、病気を詳しく明確に診断し、証を正しく弁別して行う『察証弁治』とは、ほど遠かったようです。この辺りは現代医療と似ている部分もあるかもしれません・・・
その様な環境の中でも、着実に実績を積んできた道三の評判は、たちまち京都中に広がり、1546年には僧侶を辞めて還俗し、医業を専門としました。

この後からの道三の人生は、まさにサクセス・ストーリーであり、当時の13代将軍、足利義輝を皮切りに、将軍の補佐役・管領職の細川晴元三好長慶、希代の梟雄・松永久秀、この松永弾正との絡みは明日のブログで。
その後、遂にその名声が天皇にまで届き、道三68歳の時に正親町天皇の脈をとって診察をしました。そして、信長・秀吉・家康と天下人の健康管理までを道三は行うようになりました。

この道三という人の素晴らしいところは、名誉や金銭ずくで診察をしなかったというところでしょうか。将軍を診る時も一般庶民を診る時も一切、態度を変えなかったそうです。長い日本の歴史の中で、将軍を診ながら、変わらず一般庶民も診続けたのは道三だけだったとも言われています。普通の医者ならば、日本の医者の最高位についたなら、先ず一般庶民は診ないと思います。
その、一人の権力者だけに与(くみ)すること無い姿勢に『国手(こくしゅ)』(国家の病気まで治す)と称され、自身の健康法により、88歳と長命を得て亡くなりました。

曲直瀬道三の興した医学は『後世方派(ごせいほうは)』として、江戸時代を通じて漢方医療の一大流派を作り、今日の漢方医学に受け継がれています。

内容的にかなり端折っていますが、僧籍にあったこともあり、人間的魅力に溢れた医師であり、日常的に命のやり取りをして、高ストレス状態にあった戦国武将達に、今で言う心療内科的役割も果たしていたと思われます。
実践的で、診立てを重視する姿勢は何だか操体に近い感覚もあり、妙に親近感を覚えます。
そんな道三の思いを受け継いだ正琳の築いた『玉林院』でのフォーラムは又、感慨深く夏がとても楽しみです、ベープは必需品ですが・・・

近世漢方医学史―曲直瀬道三とその学統 (1982年)

近世漢方医学史―曲直瀬道三とその学統 (1982年)