東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

シベリア抑留と橋本敬三師 その1

描く夢は未来の夢、浮かぶ夢は過去の夢、それも今はとぎれとぎれ。
この書き出しで始まるのが、橋本敬三師の著書『生体の歪みを正す』橋本敬三論想集の398ページから始まる、『ロスケ・ヤポンスケ』の書き出しです。
これから、どうなるか分からない川面に浮かぶ木の葉の様な心境がこの書き出しに込められているようです。
今年は大東亜戦争集結から66年となり、徐々に私の周りでも戦争の話を聞かせてくれる人が少なくなってきました。よく考えれば私の子供時代には明治生まれの爺さん婆さんがたくさんいましたが、今、明治生まれとなると今年99歳の方がギリギリ明治生まれとなり、もはや明治男と明治女は100歳Overじゃないとお目にかかれない時代となって来ました。脱線ついでに、記録が正確であったなら、私が見た最後の江戸時代(慶応元年)生まれの方は徳之島の泉重千代翁であったかと思います。
幸いなことに私のクライアントは80歳Overの方が何人もいらっしゃるので、戦時中の話は色々と伺うことが出来、広島県呉市海軍工廠で機密事項を扱う業務を行っていたという方や、激戦地ガダルカナルや硫黄島から生還されたという方など、当時、10代後半や20代前半といった、若年で公のために命を懸けて戦った皆様にはただただ頭が下がります。

私が橋本敬三師の書籍を読んでいて、一番興味をもったのが、先述した論想集の『ロスケ・ヤポンスケ』の章でした。何故興味を持ったかと言えば、昨年、私達東京操体フォーラムはスペインのマドリッドにて初の海外フォーラムを開催致しました。言葉が通じない中での施術は色々な意味で勉強にもなりましたし、何よりも操体には言葉を超越した何かがあり、これから日本国内のみならず、海外でも操体が通用するという確信と自信を持つ切っ掛けとなりました。そんな中で、創始者橋本敬三師が遠くロシアの地でどの様な治療を行い、生活をしていたのかを時空を飛び越え、検証してみたくなったのです。

私にとって『シベリア抑留』は理解の範疇を超えており、先ずは“シベリア抑留”とは?そして橋本敬三師がシベリアに抑留されるに至った流れを追ってみたいと思います。
【シベリア抑留とは?】
1945年8月、日ソ中立条約を破り対日参戦したソ連軍が、満州などで日本軍将兵や軍属、一般邦人ら約57万5000人をシベリアやモンゴルなどの収容所に抑留した。鉄道建設や鉱山、炭鉱などでの強制労働を2〜11年間にわたり強いられ、極寒や飢えにより約5万5000人が非業の死を遂げたとされる。抑留者、死亡者の正確な総数は現在も明らかになっていない。ロシア人調査の極秘資料によると死没者は10万人にのぼるとも言われています。
このシベリア抑留が理不尽なのは日本軍が武装解除した状態で、国際法も無視し強制労働を強いたことです。抑留経験者の方に伺うと、中国人と戦ったので中国人の捕虜になるのなら分かるが、戦ったことが無いソ連軍の捕虜になる意味が分からないと言われていました。
(写真は舞鶴港に帰還した日本人捕虜、共同通信社所有)
では実際どの様な状況下で多くの方達が抑留されていたのでしょうか。現在、島根県邑南町在住の品川始(しながわはじめ)氏の書かれた『私のシベリア抑留記 凍った大地に』から抜粋し書かせて戴きたいと思います。
当時、殆どの日本人が騙された形で抑留されたのだということが、本を読んでいて分かりました。品川氏も関東軍と戦車隊の混合部隊に編入され、約1200人位の人数でソ連の捕虜として監視されていたのだそうです。その頃の戦車隊の下士官から「皆は三ヶ月ほど我慢して、ロスケのいいなりにやっておけば日本に帰れるのだから」と聞かされたのだそうです。収容所内でも噂として「今、終戦の混乱で満州には石炭が無いので、日本に帰るための燃料分だけ、三ヶ月ほど奥地の炭鉱で掘ってから日本に返してやる」と、さもあらん様な話で日本にも物資が無いことを知っていた皆はその話を信じていたそうです。
帰国したい!という日本人の気持ちを逆手にとった、本当に卑劣なやり方だと思います。有蓋貨車に押し込まれ数十時間も行き先も告げられず、列車に揺られ、着いた場所に海があって、日本海だと喜び、水を飲んだら真水で「バイカル湖」だと気付き、「ダモイ!ダモイ!(帰国)」の言葉に又、騙されロスケを恨んだとあります。
収容所に着いて翌朝初めて食べた朝食のことが書いてありました。初めて食べる黒パン、朝は150gと飯蓋の蓋に湯飲み一杯の塩スープ。中には馬鈴薯が小さく切って、二つ三つ入っている。昼はお粥のおじやの様なものが、子供用の茶碗に一杯。朝食と一緒に出るので、誰もが一度に食べます。そうすると一時は満腹感が味わえるからだそうです。昼食の食物は季節により変わったり、入荷する品物によっても変わったそうです。コーリャンが入荷すればコーリャンとキャベツの汁が出たり、大豆が入れば大豆が一ヶ月、粟なら粟ばかりと、そんな雑穀を日本兵当番が上手に料理してくれたそうです。
一番恐ろしかったのは便所だったそうで、戸も無い空っ風の吹くところに掘っ立て小屋があり、それが便所です。厚い板が長く二枚、それに梯子状に板が又、二枚ずつ横に置いてある。十人は一度に用が足せる。氷点下四十度にもなると、一人が済ますと竹の子の様に伸びていく。鍾乳石の様にと言った方が、分かりやすいかもしれない。コーリャンやヒエの七分づきを食べると、渋があって、便秘になり、便が出ないのと、酷寒の中で尻を出す寒さのための痛みがあり、耐えきれず泣いているものもいた。私が聞いた地元、古老の話では、便所の脇にトンカチが置いてあって、竹の子の様になった便をトンカチで叩き割ってから大を済ませたのだそうです。

このシベリア収容所での記述で特に目にとまったのが、毎年秋にある日本人捕虜の身体検査の話だった。普通、身体検査なら体重計や聴診器などを使用すると思うが、ここでは腰掛けてる女医の前に立つと、すぐ後ろ向きにされて尻を出させ、親指と人差し指でその尻を捻る。その肉の厚さ、薄さで人間の価値を決める様に、大きな声で「一グル(アジグル)」「二グル(ドバグル)」「三グル(ツリグル)」「O・K(オーカ)」と四つのグループに分けるそうです。
一グルは尻の肉も厚く、最も健康で重労働に耐えられる
二グルは普通の体格
三グルは尻の肉もやや薄いので、軽作業班へ
O・Kは栄養失調者
これでは牛や馬の競り市に出されている様なもので、人間としての人権などは存在せず、完全に奴隷扱いだと言えます。
ロクな食事も与えられず、不規則な労働時間、そして過酷な労働環境の中で、ノルマをこなせば、優秀者は「ダモイ!ダモイ!」と帰国を餌に重労働を課し、実際はノルマをこなしている組は一番遅くまで抑留されるという、理不尽な仕打ちを受けていたようです。
日本も終戦70年を前に、シベリア抑留で未だ帰国出来ていない英霊達の遺骨収集をロシア側の協力を得ながらも、毎年行っているようですが、未だ充分な結果が出せずにいるようです。

この理不尽なシベリア抑留という所業に関して、全てを語るのは難しいですが、操体法創始者橋本敬三師も同じように抑留を経験されているお一人です。最終日は橋本敬三師のシベリア抑留に触れてみたいと思います。

東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。