東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)] 医療水準と操体、その六

人の記憶とは不思議なことばかりですね。
記憶能力に限界はあるのでしょうか、もしあるならば想記能力の問題ではないでしょうか?
生まれてからの記憶、生まれる前の母体と共にあったイノチの記憶、遺伝子に刻まれている記憶まで・・・。

(選択の自由)
私の親戚に、先天性小児麻痺で、左腕と首から上しか動かせなかった叔母がいました。
一回消した記憶が蘇って記憶している言葉、それは叔母が六歳の私に伝えてきた言葉なのです。
「大きくなったら私のように自分で立てない人を、歩けるようにしてあげられるような勉強をして、立派なお医者さんになってネ」

そして、この叔母の言葉を思いだしたのは、12年後法事で会ったときでした。
「イクオ(私)は大きくなったら、私の足を治してくれるんじゃなかったの?」
と、冗談で笑いながら言っていたのですが、このことを言われた6歳の自分自身は、この言葉で復活してしまったのです。


僕は脱サラして、鍼灸按摩師、柔道整復師の資格を取って茅ヶ崎で開業してから、
横須賀の叔母に会いに行きました。
「おめでとうイクオ、大変な勉強してきたんだから、私の足も見て頂戴」
当時の私は肩書しかありません。生まれつき診断名もある叔母に何か出来るなんて到底思えませんでした。
その場でお茶を濁すようなことしかできず、グングン伸びていた鼻を打ちのめされました。

その次の年から、三浦理事長の主催している「操体法東京研究会」に参加して以来、「東京操体フォーラム第一回」より、
「塾操体」も必ず参加して一年も欠かすことなく、現在も三浦理事長に個人レッスンをお願いしています。
私は怠けるのが大好きな自分を飼っているので、叔母の一言がなければ一つのことをここまで続けていないと思います。

手足が不自由でも笑顔は自由です。叔母にとっても、なによりの財産だったことでしょう。
表情筋の発達ぶりは見事でした。百面相のできるような人でしたから、その周りにいるだけで笑い顔が広がるのです。
夫と協力して二児を出産、左手以外は麻痺状態にありながら、「家庭介護力」はとても強固な絆となっていました。
電動車椅子で行ける買物も、一人で掃除洗濯も行えるのですが、転倒すると誰か助けてくれるまでジッと待つしかないのです。

前置きがちょっと長くなりました。そんな叔母に会いに行った一昨年の話をします。
医療処置が厳しい状態で末期の原発性肝臓がんと診断され、家庭生活を望んだ叔母は、変わらぬ生活を選択しました。
幸いにして、叔母の周囲には培ってきた家庭介護力もあり、かかりつけの医師の協力もありそれを可能としました。

ある日曜日の夕方、講習からの帰路途中駅のホームにいると、母親から連絡がありました。
「忙しいだろうから今日でなくていいけど、(叔母に)ちょっと近いうちにに会いに来たら?」
一瞬躊躇しました。自分で考えてしまうと『明日の朝七時から予約が入っているし、今度でも・・・』と。

そこで、自分ではなく「息」に自身に問いかけ、落ちつこうとした時に頼りになるのは、生命の根本である「息」です。
結果、自分ではよくわからないけれど「会いに行かなきゃ」と感じ電車を乗り換え不思議を味わいました。
いつも混雑している電車はなぜか座ることができて、三回乗り換えた急行電車は乗り換えもスムースに到着したのです。

久しぶりに会った叔母は、腹水がたまり、手足や全身が風船のように膨らんだまま、目は上を向き、呻くような呼吸をしています。
いつものように会った瞬間、「オ〜よく来たね〜イクオ、ありがとう!」という言葉をかけられなかったのも、初めてでした。
ただ、ベッドの近くで一年ぶりに私を見た途端、激しく何かを訴えますが、呻きのようであり、聴き取れないのです。

私は思い出しました。そうだ!僕は三浦理事長に「操体法」だけでなく「快」を通す学び、
そして診断法としての「息診」さらに「皮膚の接触」を「操体」を通じて学んでいるじゃないか!
”間”をはかり、落ち着いて向き合いなおしたところで・・・「息診」。
「うん、ゴメンね。僕も久しぶりに会えて嬉しいよ。ちょっと触れてもいいかな・・・」と「渦状波」で接触しました。

すると、荒っぽい呼吸は少しづつ納まり、周りにいた家族達は皆驚き、黙って僕と叔母の空間を見守ってくれました。
自分でない、自身がありそれが「イノチ」を循環している。ただ僕と叔母はその”間”にいる、それだけなのです。
「こんなに安らかな息をしているのは久しぶりだね!よかったねイクオが来てくれて・・・わかる?」
すると、涙を流す叔母がどうしようもなく何かでにじんでしまい、前を見ることのできない私にも確認できたのです。

「終電に間に合うように帰るから、また来るね」
すると叔母は、膨らんだままでも「スースー」と寝息を立てて休んでいました。
その二日後、亡くなったと知らせた私の母親は「イクオに会いたかったから、最後に呼んだんじゃないの」と言いましたが、
虫の知らせ?私にはサッパリわかりません。ただ、突き動かされたように「からだ」は優先して私を導いたのかもしれないという事実です。

人が亡くなった。人が生きていた。僕が今、生きているけれどいずれ死ぬ。

生かされている人は亡くなる。蘇る人は生きる。僕は今、生きているから死ねるんだ、という有り難みを学ぶ。

医療と介護と自己責任分担。
受けるのも拒むのも、流されるのも、乗っていくのも自分自身。

常に介護を必要として生き、生かされていた叔母の言霊は、それこそ私が生まれてくる前の記憶にヒビいていた気がします。

「これ自己の強為(ごうい)にあらず、威儀(いいぎ)の云為(うんい)なり」
                                   〜道元

(訳:人間の意図的努力によってやることなしに、いずれ自分の役に立ってくることが起きているだけだ)