東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

バランスという事を考えてみる。

おはようございます。

 昨日は、スポーツを土台として、バランスをとるのではなく、バランスをとってからスポーツをやる、という考え方のほうが良いのではないか、と最後に書かせていただきました。

 スポーツに怪我はつきもの、という話は良く聞きます。怪我をしない為に、準備運動をしっかり行う。良い事だと思います。
 ただ、その準備運動が、怪我をしない為だけの目的でなく、怪我は勿論、異常感覚を伴うからだの歪みの予防の為にも、身心のバランスをとる。
 また、好調子を持続させる為、より自然体に近い状態をキープするという事まで高められれば、と思うのです。
  

 その為には、自然環境に適応すべく、自然法則を知り、それに合わせていこうという意識が必要になってくる。
 周囲の環境は、人によってまちまちだ。民族単位で見たら、それこそ大きな違いが出てくる。それはそれで良い事だと思う。自然環境も地域によって少しずつ異なるのだから、その地域に適した文化の発展や習慣があって良い。これは尊重すべき事だと思う。

 しかし、自然環境には、どこの人々にも共通する普遍的なものがある。とりわけ、どこの誰でも、空気で満たされ、重力の作用を受け、生命を育み意識に反応する水がある、という恩恵を受けている。
 それらの恩恵を受けて、「息」「食」「動」「想」の生命活動を営むことが出来ている。これも、誰にでも共通する普遍的なことであり、誰もが生かされて生きている。
 そこに純然たる生かされし自然法則が自在する。これも普遍的なことであり、「生きている」と我を張る前に「生かされている」という事実に想いを馳せる事が必要だと思う。
 
 「動」つまり、からだの使い方、動かし方にも、純然たる生かされし自然法則が自在する。からだは構造があって動く。それも普遍的な自然環境に適応すべく設計されている。
 そしてその設計にミスはない。人は無重力状態のところに行くと、骨は10倍の速さで衰えると聞いたことがある。
 それだけ普遍的な自然環境との結びつきが強いということであり、その様に設計されている、という事だと思う。

 だから、その設計に基づいた使い方、動かし方がある。準備運動も自然法則を知った上で、それを応用したものでなければならない。
 いや、本来であれば準備運動という概念を捨てて、生活動作全般にわたり、「動」の自然法則を応用し、感覚をききわけながら、日常動作を作法化していくべきものだと思う。そうしなければ、真の自然体(健康体)としての身心のバランスというものにはつながらない。

 上辺だけの身心のバランスだけを言うなら、こんなにまどろっこしく、自然環境との係わりから始まる説明などする必要はない。
 しかし、本来の身心のバランスとは、自然環境と生命活動との係わりを無視しては成立しない。自然法則を知り、想いを馳せ、意識する事。その上で、感覚をききわけながら日常動作を作法化していく事。

 からだの動きは「動」だけで成り立っているわけではなく、他の「息」「食」「想」ともつながって成立している。
 そして、これらは同時相関相補連動性となっている。これは、あるものが悪くなれば他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質を意味する。ここに、自然法則を知り、より良くバランスをとっていく為の鍵がある。そして、その時々の様々な「環境」と係わり合っている。

 その時々の様々な「環境」には、スポーツをしている時の環境も、当てはめる事が出来る。その環境におかれた状況に柔軟に対応し、尚且つ能率的である。そして事が終わった後も、異常感覚を伴うからだの歪みを生じさせることなく、疲労も最小限に収まる。
 そんな身心のバランス状態が理想だと思う。これはスポーツだけに限らず、他の事にも当然当てはまる。その根本にあるのは、普遍的自然環境への適応と自然法則への順応。

 より良く身心のバランスをとるという事は、一朝一夕には行かない。しかし一朝一夕に行かないから、面白いとも言えるし、愉しいとも言える。
 それだけ、より良くなる伸びしろが、あるという事。100点満点の人間などいないのだから。
 感覚をききわけながら、快の方向へ、より良くなる様にバランスをとって行けば良い。誰でも意識行動意欲さえあれば出来ることであり、人間としての本音の部分が求めている事でもあるのだから。
 取り組む中で、相応の成果は感じられると思う。但し、欲張らない事。バランスは間に合っている事こそ最良なのだから。